河野通宣 (こうの みちのぶ) | げむおた街道をゆく

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河野 通宣(こうの みちのぶ)は、戦国時代の武将・大名。伊予河野氏の当主。湯築城主。



ー 生涯 -
予州家の河野通存(みちまさ、河野通春の孫)の子と言われてきたが、近年では河野通直 (弾正少弼)の実子であったことが確認されつつある。1543年(天文12年)に当主であった兄の河野通政が早世したため、家督を継ぐこととなった。しかし若年であったため、河野通直の後見を受けることとなる。
通宣が家督を継いだ頃の河野氏は、家臣の謀反や豊後国の大友氏、土佐国の一条兼定の侵攻を受け、国内では宇都宮豊綱とも対立し、領内はまさに危機的状態にあった。重臣の村上通康や平岡房実が遠征を繰り返し、鎮圧に及んだが、もはや国内を独力でまとめる力もなかった通宣は、以前より姻戚関係であった中国地方の雄・毛利元就と従属的同盟を結び、小早川隆景を中心とする毛利軍の支援によって、土佐一条氏や伊予宇都宮氏を撃退している(毛利氏の伊予出兵)。
しかし、伊予国内への相次ぐ侵略や家臣団の離反など、内憂外患が続き心労がたたったのか、通宣は病に倒れる。嗣子が無かったため、1568年に家督を一族の河野通直(伊予守)に譲って隠居し、1581年に死去した。ただし、近年の研究によるとその死は永禄13年(1570年)頃ではないかとも言われる。


以上、Wikiより。



河野通宣