川口宗勝 (かわぐち むねかつ) | げむおた街道をゆく

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川口 宗勝(かわぐち むねかつ、天文17年(1548年) - 慶長17年3月4日(1612年4月4日))は、戦国時代から江戸時代の前期にかけての武将。通称は久助。父は川口宗吉、母は小島信房の娘とも、織田信長の伯母とも。妻は福富直貞の娘。子に宗信、宗之、宗重、宗利、宗澄、宗政。



ー 生涯 -
川口盛祐(文助、大橋定安の弟)は、一族の川口宗持の養子となり、大河内元綱の養女・於富の方(華陽院)を娶り、宗勝の父・宗吉が生まれた。この於富の方は、水野忠政に嫁ぎ徳川家康の生母・於大の方を産み、また家康の祖父・松平清康にも嫁いでいる。そのため宗勝と家康ははとこにあたる。
宗勝は、はじめ水野信元に仕え(『尾張志』)、永禄6年(1563年)には柴田勝家へ、翌永禄7年(1564年)には織田信長の直臣となり弓大将となる(『寛政重修諸家譜』)。また、永禄9年(1566年)に木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が墨俣に一夜城を築いた時の野武士の中に宗勝の名が見える(『太閤記』)。本能寺の変ののちは織田信雄、豊臣秀吉に仕え、伊勢国尾張国内で18000石を領した。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、宗勝は大坂城におり東軍に味方するつもりで中江直澄とともに出立したが、増田長盛・長束正家に留められたため心ならずもでは西軍に属した。安濃津城攻めなどに参加するが西軍が敗れると高野山に蟄居し、所領を没収され身柄を伊達政宗に預けられる。のちに慶長11年(1606年)徳川秀忠に許されて、青菅(現・佐倉市)2500石を賜り旗本となった。
慶長17年(1612年)、青菅にて死去。以後、元禄11年(1698年)までの92年間、川口宗信(孫作)、川口宗次(久助)、川口宗恒(源左衛門、摂津守、長崎奉行のちに江戸町奉行)と4代に同地を知行した。


以上、Wikより。



川口宗勝