金森長近 (かなもり ながちか) | げむおた街道をゆく

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金森 長近(かなもり ながちか)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。名ははじめ可近(ありちか)、後に織田信長から一字を賜り、長近を名乗った。通称は五郎八。法印素玄。飛騨高山藩初代藩主。



ー 家系 -
金森氏は、美濃源氏土岐氏の支流と称する。応仁の乱にて西軍として活躍した美濃守護・土岐成頼の次男・大畑定頼の次男・定近が一族を連れて美濃を離れて寺内町として著名な近江国野洲郡金森(現在の滋賀県守山市金森)に居住し、「金森采女」を称した事に始まる。長近は定近の次男に生まれ、落語の祖と呼ばれ『醒睡笑』を編した安楽庵策伝も定近の子で長近の弟と伝えられている。



ー 生涯 -
大永4年(1524年)に美濃の多治見に生まれる。父・定近は土岐氏の後継者争いで土岐頼武を支持したが、頼武は土岐頼芸に敗れて失脚し、定近も程なくして美濃を離れ近江国野洲郡金森へと移住した。天文10年(1541年)まで近江で過ごしたという。
18歳になると近江を離れて尾張国の織田信秀に仕官し、跡を継いだ信長にもそのまま仕えている。美濃攻略に従って功があり、赤母衣衆として抜擢。長篠の戦いでの鳶巣砦攻略、対越前一向一揆戦などで戦功を重ね、天正3年(1575年)、越前国大野郡に所領を与えられた。その後は信長配下の柴田勝家の軍団に属した。
天正10年(1582年)、本能寺の変で信長が家臣の明智光秀に討たれ(この際、嫡男長則は織田信忠と共に討死したため、長屋景重より可重を養子にとった)、勝家と羽柴秀吉が対立すると、柴田側に与したが、天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いで勝家が秀吉に敗れて自刃すると、剃髪して降伏し、秀吉の家臣となるも臨済宗大徳寺の山内に旧主織田信長を弔うため金龍院という塔頭を建立した。
その後は小牧・長久手の戦い、富山の役、飛騨国の姉小路頼綱討伐などで功績を挙げ、天正13年(1585年)、飛騨一国(3万8700石『寛政重修諸家譜』)を与えられた。禅宗と茶道に造詣が深く文禄3年(1594年)頃には秀吉の御伽衆を務めたという(『太閤軍記』)。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは可重とともに東軍に与し、戦後、飛騨に加え美濃郡上八幡城攻めなどの功を賞されて2万石を加増、徳川家康より飛騨守に推挙され初代高山藩主となる。
慶長10年(1605年)、小倉山城を築く。城下町はうだつの上がる町並みとして現存し、重要伝統的建造物群保存地区となっている。
茶の湯の才にも秀でており、秀吉から千利休の嫡男である千道安を匿ったともされる。


以上、Wikiより。



金森長近