笠原政尭 (かさはら まさたか) | げむおた街道をゆく

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笠原 政尭(かさはら まさたか、生年不詳 - 天正18年6月16日(1590年7月17日))は、戦国時代から安土桃山時代の武将。後北条氏の家臣。
松田憲秀の長男[1] 。通称、新六郎。「政尭」で広く知られるが、これは俗説で北条氏の文書上では「政晴」(まさはる)とされる。尚、「政」の字は北条氏政から偏諱の授与を受けたものである(養父の笠原康勝(やすかつ、信為の子)も氏政の父である北条氏康から1字を賜っており、この慣例に倣ったものである)。
笠原康勝の養子となり笠原姓を名乗る。天正7年(1579年)に武田氏と北条氏の同盟関係が解消されると、武田家と隣接する防衛線には重臣が配されたが、中でも要害とされた武田氏の沼津城に隣接している戸倉城の守備を任された。が、その後2年間、他の諸城では武田氏との小競り合いが続き、戦功をあげる報告も届いたが、戸倉城からの戦功報告はなく(戸倉城は三方を川に囲まれた天然の要害であり、攻めにくい城であったので、武田方が積極的に攻めてこなかった為に手柄をあげようにもあげられなかったという経緯もある)、家中では「臆病者」との風説が広がり、立場を悪くしていった。そんな最中、武田家臣で沼津城主の曾根昌長(虎長の祖父または父)から内応を持ちかけられ、天正9年(1581年)10月には武田氏に内応し、北条氏を離反。武田氏の支援を受け、義弟(康勝の実子)の笠原照重(てるしげ)を攻めて敗死させている。
甲州征伐により武田氏が滅亡した後は戸倉城も失い、路頭に迷っていたが、父の取り成しもあって何とか北条氏に帰参を果たした。豊臣秀吉の小田原征伐では父・憲秀と共に秀吉方に降ろうとした事が露見、父は監禁され、政尭は城内で殺害された。


以上、Wikiより。



笠原政尭