鬼庭綱元 (おににわ つなもと) | げむおた街道をゆく

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鬼庭 綱元(おににわ つなもと) / 茂庭 綱元(もにわ つなもと)は、安土桃山時代から江戸時代の武将。陸奥・出羽の戦国大名であった仙台藩主伊達氏の重臣。



ー 生涯 -

戦国時代
天文18年(1549年)、伊達郡小屋館(赤館)城主・鬼庭良直(左月斎)の嫡男として生まれる。
天正3年(1575年)、父の隠居にともない家督を相続し、長井郡川井城主となる。天正13年11月(西暦では1586年1月)の人取橋の戦いでは殿軍を務め主君・伊達政宗を逃がすために奮戦するが、父・左月斎は討死にした。天正14年(1586年)には奉行職に任ぜられ、天正16年(1588年)には安達郡百目木城主となり所領を5,000石に加増された。
天正18年(1590年)、奥州仕置にともなう知行再編により柴田郡沼辺城主となる。同年に発生した葛西大崎一揆を政宗が煽動していたことが露見すると、豊臣秀吉への弁明のために京に派遣され、以後秀吉との折衝役を務めることになる。
天正19年(1591年)に政宗が岩出山に減転封されると、磐井郡赤荻城主となった。文禄元年(1592年)、文禄の役の際には肥前国名護屋に在って留守居役を務める。この時、秀吉が「鬼が庭にいるのは縁起が悪い」という理由で、姓を茂庭に改めさせたという。同年、長男・安元が病死したため、八幡氏に養子に出していた二男・良綱(良元)を呼び戻して跡取りとした。

出奔
秀吉が綱元を気に入り直臣として召し出そうとしているとの噂を耳にした政宗は、次第に綱元を疑うようになり、ついに文禄4年(1595年)、綱元は政宗の命により良綱に家督を譲ることを迫られ隠居に追い込まれた。この時綱元に与えられた隠居料はわずか100石に過ぎず、加えて隠居料以外の収入を得た場合には良綱が相続した茂庭氏の本領5,000石をも没収するという条件が付けられたため、憤激した綱元は伊達家から出奔した。
この時、本多正信を介して徳川家康から誘いを受けたものの、政宗の奉公構により破談となる。綱元の境遇にいたく同情した家康は、中白鳥毛槍・虎皮の鞍覆・紫縮緬の手綱を贈り、また当座の資金として関八州の伝馬10疋の朱印状及び永楽銭200貫文を与えた。中白鳥毛槍は現存し、昭和48年(1973年)7月1日に松山町から文化財指定を受けている[1]。
慶長2年(1597年)、赦免されて伊達家に復帰する。

江戸時代
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、山形城主最上義光への援軍第一陣として伊達政景の指揮下に入る。綱元は政景の命により別働隊を率いて長井方面へと進攻し、9月25日に刈田郡湯原城を攻略すると、さらに二井宿峠を越え高畠城へと向けて兵を進めていたが、政宗の命令により、突如として屋代景頼らと共に福島表の兵力不足を補うために呼び戻され、10月6日の福島城攻めに参加した。
同年末、隠居料として改めて栗原郡文字に1,100石を与えられる。慶長6年(1601年)9月に政宗が上洛する際には、すでに普請が始まっていた仙台城の留守居役を任され、さらには父・左月斎が輝宗の代に務めていた評定役[2]に就任し、六人制の奉行職(古田重直・鈴木元信・山岡重長・津田景康・奥山兼清・大條実頼)の上に立ってこれを指導・監督した。翌慶長7年(1602年)には、政宗がかつて秀吉から賜った愛妾・香の前を下げ渡され、政宗と香の前との間に生まれた一女一男(津多・又四郎)は、綱元の子として育てられることになった。
慶長9年(1604年)、政宗の五男・宗綱(卯松丸)が栗原郡岩ヶ崎城主になると、評定役の職に留まったままその後見役を命じられた。宗綱は仙台城下の綱元の屋敷で養育され、岩ヶ崎城下には城の管理にあたっていた綱元の家来達が住む町場(茂庭町)が置かれた。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では政宗の長男・秀宗の陣に属し、翌慶長20年(1615年)2月、秀宗に伊予国宇和島藩10万石が与えられると、綱元は良綱と共に宇和島に赴いて宇和島藩の統治機構の立ち上げにたずさわり、同年4月の大坂夏の陣には宇和島城から出陣した。
元和4年(1618年)に宗綱が早世すると、その菩提を弔うため入道して了庵高吽と号し、高野山成就院に赴き三年間にわたって供養を行った。帰国後、政宗より宮城郡下愛子の栗生に館を拝領すると、以後はここに居住した。寛永13年(1636年)5月24日に政宗が死去すると政務を離れ、栗生の館を五郎八姫に譲って隠居領の文字に隠棲する。翌年には同地に洞泉院を創建し、その境内に政宗のために阿弥陀堂を、宗綱のために妙覚堂を、それぞれ建立した。
政宗の四回忌にあたる寛永17年(1640年)5月24日死去。享年92。洞泉院の石仏を以て墓石とした。隠居領は三男の実元が相続した(着坐・文字茂庭氏)。



ー 人物・逸話 -

人取橋の戦いで父・左月斎を討ち取った岩城氏家臣・窪田十郎が後に伊達軍に捕らえられた際には、「虜囚を斬るのは士道に悖る」として窪田を赦した。これに感服した窪田は願い出て綱元の家来となった。
茂庭氏が代々長寿の家系であると聞いた秀吉は、その秘訣を探ろうとして綱元に日頃の暮らしぶりについてあれこれ下問した。この時綱元が、日頃から米粉を湯に溶いたものを服用していると答えたので、秀吉もこれを「石見湯」と名づけて服用するようになったという。
綱元が隠居に追い込まれた原因として、賭け碁に勝った綱元が秀吉から香の前を賜ると、政宗が綱元に香の前を差し出すように命じたが、綱元がこれを拒んだために政宗の怒りを買ったとする説が有る。この説によれば、帰参の条件には香の前を差し出すことが有ったともいう。
別名の延元は、寛文年間に公文書上で第4代藩主・伊達綱村(綱基)の諱を避けるため、綱元の孫・定元(寛文元年(1661年)に改名)の旧名を転用したものであり、生前に綱元はこの名を名乗っていない[3]。


以上、Wikiより。



鬼庭綱元