大友義統 (おおとも よしむね) | げむおた街道をゆく

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大友 義統(おおとも よしむね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての豊後の戦国大名。大友氏の第22代当主。大友宗麟の嫡男。



ー 生涯 -

家督相続
永禄元年(1558年)、第21代当主・大友義鎮(のちの宗麟)の長男として生まれる。将軍・足利義昭の偏諱を受け義統と名乗った。
天正4年(1576年)、父の隠居により、家督を継いで第22代当主となる。天正7年(1579年)11月27日、織田信長の推挙によって従五位下・左兵衛督に叙位・任官される。同時に毛利氏滅亡の暁には長門・周防を分与することを条件に毛利輝元を挟撃する約束を交わしたとされる。ただし、大友家の実権は依然として父の宗麟が掌握していた。
天正6年(1578年)、日向国に侵攻するも、耳川の戦いで大敗を喫し、以後は大友家臣団の分裂が始まる。また、父との二頭政治にも弊害が現れて父と対立し、かえって大友家の内紛を加熱させることとなった。有力庶家である田原氏や田北氏が反乱を起こし、重臣・立花道雪も病没、さらに肥後方面を押さえていた志賀氏とも疎遠となる。かつては大友氏の版図であった肥後・筑後・筑前は次第に肥前国の龍造寺氏や薩摩国の島津氏に侵食されていった。
天正14年(1586年)、島津義久による豊後侵攻(豊薩合戦)が始まると、宗麟や義統への忠誠心を失っていた家臣達は相次いで離反し、また高橋紹運が岩屋城で戦死するなど(岩屋城の戦い)、大友氏は滅亡の危機に立たされる。宗麟の嘆願により豊臣秀吉より援軍として派遣された長宗我部元親や仙石秀久らと共に島津軍と戦うが、戸次川の戦いで大敗し、家臣利光宗魚、戸次統常を失う。義統は宗麟や家臣の志賀親次、佐伯惟定が居城において奮戦するのをよそに、府内を退去し、島津軍が豊後を席捲するのを許してしまう。
しかし、天正15年(1587年)、豊臣秀吉自身による九州征伐で島津義久が降伏すると、豊後一国と豊前宇佐郡半郡を安堵された。
また、同年4月に、義統は隣国の豊臣大名黒田孝高の強い勧めで、夫人や子供らと共にキリスト教の洗礼を受けコンスタンチノという洗礼名を受けていたが、同年6月に発令された秀吉の棄教令により、棄教した[2]。
天正16年(1588年)2月に秀吉に謁見するため、上洛。秀吉から非常に気に入られたとされ、羽柴・豊臣の姓を下賜され、さらに、秀吉から偏諱(「吉」の1字)を与えられて義統から吉統へと改名した[3]。

豊臣秀吉の時代
天正18年(1590年)の小田原征伐では豊臣軍の一員として参戦している。天正20年(1592年)、文禄の役に黒田長政勢5,000と共に第三軍として兵6,000を率いて参戦。同年2月には嫡子・大友義乗に家督を譲り、自身は酒好きであったが、下戸に徹するようになど、公私にわたった21ヶ条の家訓を伝えている。
文禄2年(1593年)、明の大軍に包囲された小西行長から救援要請を受けたが、行長が戦死したという誤報を信じて撤退し、鳳山城を放棄した。ところがこれが秀吉の逆鱗に触れ、5月1日に改易された。大友領であった豊後および豊前の宇佐半郡は豊臣家の直割地となり、のちに豊臣家の奉行等の領地となった。
吉統は、江戸(徳川氏)、水戸(佐竹氏)、山口(毛利氏)などに次々に身柄を預けられ幽閉状態が続いた。旧大友家有力家臣らは大友家再興を願いつつ、他の大名の客将となるなどして、世をしのいだ。

豊臣秀頼の時代
慶長3年(1598年)秀吉の死により、翌年にはそれまでの罪を許され、幽閉状態から脱した。大坂城下に屋敷を構え、豊臣秀頼が当主となった豊臣家に再び仕える。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、毛利輝元の支援を受け、広島城から西軍の将として元の領国であった豊後に侵攻した。戦勝のあかつきには「豊後・豊前二ヶ国の恩賞」が約束されていたともいう。田原氏・吉弘氏・宗像氏などの小大名クラスの旧臣が諸国よりぞくぞくと合流し、大友軍が再興した。
しかし9月の石垣原の戦いで、緒戦は優勢であったが、終盤では豊前の黒田如水と豊後杵築の細川家残留家臣団の連合軍に敗れてしまい、剃髪し妹婿であった黒田家の重臣・母里友信の陣に出頭して降伏。
再び、今度は徳川家から幽閉される身となった。

関ヶ原の戦い後
関ヶ原の後、徳川家康派の細川領豊後杵築城を攻めた理由で、常陸国宍戸に流罪に処された。流刑地では再びキリシタンとなったという話も伝わるが、同時代史料が無く未詳である。この流刑地で大友氏に伝わる文書を「大友家文書録」にまとめたが、このおかげで大友氏は零落した守護大名家としては珍しくその詳細を知ることができ、大変貴重な史料となっている。
吉統は慶長15年(1610年)に死去する。享年53。戒名は中庵宗厳。大友家は嫡男の大友義乗が継ぎ、旗本として徳川家に召抱えられ、鎌倉以来の名家として高家として栄えた。



ー 人物・逸話 -
『九州諸家盛衰記』では「不明懦弱(ふめいだじゃく)」と書かれている。これは「識見状況判断に欠け弱々しく臆病」という意味である。
天正遣欧少年使節が帰国した際、宣教師たちに棄教のことを謝罪したが、この中で「もとより自分は意志薄弱で優柔不断な性分なので」と言及している。(フロイス日本史)
相当、酒癖の悪い人物であったらしく、多くの宣教師の資料に「過度の飲酒癖やそれによる乱行が多い」と記されている。自身も自覚していたのか前述の通り、子・義乗に残した家訓に「下戸である事」と戒めを記している。
父・宗麟がキリスト教に傾倒し神社仏閣を破壊したという話が知られているが、大友氏の本拠である豊後国内や筑後国内での破壊は、当時次期当主であった義統が積極的に行っており、義統が主導した可能性もある。
島津軍が豊後府内に侵攻してきたとき、義統は居城の府内城を捨てて逃亡している。さらにこのとき、寵愛する愛妾を置いていたことを思い出して、家臣の1人に救出を命じた。家臣の1人は命令に従って救出してきたが、それに対して義統が恩賞を与えようとすると、「私は女を1人助けたに過ぎません。このたびの戦いで多くの同朋が死んだにもかかわらず、それには報いず、私にだけ恩賞を与えるとは何事ですか。そのような性根を持つ主君は、我が主君にあらず」と述べて、逐電したという。この家臣の名は「臼杵刑部」といい、のちに毛利輝元に仕えたという。
文禄の役の失態に関しては、同じように小西行長からの救援要請が小早川秀包や黒田長政にも出されており、両者ともこれを拒否している。にも関わらず、黒田・小早川は何の処罰も受けず、義統(当時は吉統)のみが改易処分と厳しい処置を取られたのは、秀吉家臣の讒言を受けた為とも、梅北一揆に大友氏の一族が加担していたとの風説があった事などにより秀吉が不信感を前々から抱いていたという説がある。
父・宗麟との対立は、隠居後、自由奔放にキリスト教へ極端に傾倒していった宗麟に対し、反感を抱いていた反キリスト教の家臣団と、離別後も強い影響力を持った実母・奈多夫人の影響が強かった為とされる。特に奈多夫人は義統に対して影響力が強かったようで、宗麟と後妻との間に子が出来た事を知ると、その子供が男・女に関わらず殺すようになどと進言し、関係はさらに悪化したとされる。
耳川の戦いは父・宗麟主導によるものとされているのが通説であったが、宗麟は隠居後の天正5年(1577年)や天正6年(1578年)は領国関係に関する文書・史料が発見されていないため、義統主導によるものとされている。


以上、Wikiより。



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