大崎義直 (おおさき よしなお) | げむおた街道をゆく

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大崎 義直(おおさき よしなお)は、日本の陸奥国にいた戦国大名である。大崎氏の第11代当主で、大崎氏最後の奥州探題であった。官位は従五位下、左京大夫。



ー 生涯 -

奥州探題大崎氏を継ぐ
奥州探題斯波大崎氏の大崎義兼の次男として生まれ、名生城に住んだ[1]。兄の第10代大崎高兼が早世したため家督を相続した。永正11年(1514年)成立の『留守氏旧記』に「大崎は11代」と記されているので、この年までに11代当主として大崎氏を継いでいたと思われる[2]。はじめ義国といい、後に義直と改めた[3]。
大崎氏は奥州管領・奥州探題として陸奥国の武士をとりまとめる家柄だったが、この頃は勢力を減じ、現在の宮城県北西部に割拠する一勢力となっていた。かわって陸奥国で力を伸ばしていたのは伊達氏である。大永2年(1522年)に、幕府が伊達稙宗を新設の陸奥国守護職に任じたため、陸奥国には一国に守護と探題が並び立つ変則的な状況が生まれた[4]

大崎内乱と天文の乱
天文5年(1536年)、氏家直継・古川持煕・新井田頼遠らが反乱を起こした。義直にはこれを独力で鎮圧できず、伊達稙宗に援軍を要請した。しかしその代償として、稙宗の子・義宣が兄・高兼の娘を娶る形で養子として送り込まれ、大崎氏は伊達氏に従属した。天文11年(1542年)に天文の乱が勃発すると、稙宗方に付いた義宣を討つため、義直は晴宗方に付いた。乱は晴宗方の勝利に終わり、天文19年(1550年)には義宣を討ち取り、伊達氏に完全に吸収合併されることは辛うじて免れたものの、従属状態から脱却して勢力を回復させることは出来なかった。
義直は天文14年(1545年)7月5日に従五位下、左京大夫に任官した[5]。代々の大崎氏当主が任じられた官である。
子の義隆は永禄10年(1567年)に所領安堵の文書を相継いで発給しており、この頃代替わりがあったと推測される[6]。天正5年(1577年)没[7]。


以上、Wikiより。



大崎義直