鵜殿氏長 (うどの うじなが) | げむおた街道をゆく

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鵜殿 氏長(うどの うじなが、天文18年(1549年) - 寛永元年6月14日(1624年7月29日))は、戦国時代から江戸時代前期の武将。氏廣とも。通称は三郎。従五位下、石見守。養子に鵜殿氏信。



ー 生涯 -
天文18年(1549年)、今川義元の家臣で三河国上ノ郷城(蒲郡市神ノ郷町。『三河物語』では、西之郡之城とある。)主として宝飯郡一帯(現在の蒲郡市域)を支配していた鵜殿長照の子として生まれる。幼名は新七郎。しかし彼が未だ少年時代であった永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで義元が織田信長に討たれると彼を含めた鵜殿氏の運命は暗転する。鵜殿氏と同じく今川家に臣従していた松平元康(徳川家康)が今川氏から独立を図り、さらに三河一国の統一を目指して侵攻を開始したのである。永禄5年(1562年)、松平軍の攻撃により上ノ郷城は陥落し父・長照は戦死、氏長も捕縛された。家康は彼の身柄と引き換えに今川氏に臣従していた時期に義元のもとへ人質として差し出していた正室の瀬名姫と嫡男の竹千代を返還するよう今川氏に要求した(氏長の祖父・鵜殿長持の正室は今川義元の妹だったため、氏長は今川氏の当主氏真にとっては従兄弟の息子にあたった)。
交渉はなんとか成立したが、故地を失った氏長は遠江二俣城の松井宗恒のもとに身を寄せた。しかし永禄11年(1568年)、武田信玄と呼応した家康が今川領に侵攻し、二俣城を攻めてくると、氏長は家康に降伏し、家臣として仕えた。
その後、家康のもとで元亀元年(1570年)の姉川の戦い、天正3年(1575年)の長篠の戦いに参加している。天正18年(1590年)の小田原征伐後に家康が関東に移封されると、1,700石を与えられ、旗本となった。
文禄2年(1593年)、従五位下・石見守に叙位・任官する。寛永元年(1624年)6月14日に死去。享年76。諡号:日仙。


以上、Wikiより。



鵜殿氏長