岩上 朝堅(いわかみ ともかた、・永禄12年 巳(1569)没 )は結城氏の家臣。 元の名は三浦義堅であったが、功績を立てたことから「結城四天王」のひとりとなり、結城氏の重臣であった岩上姓を与えられ、同時に主君・結城晴朝の「朝」の一字を賜った。常陸方面の結城領を管轄し、外交面でも活躍したという。子の岩上持家(吉九郎、三十郎、大膳亮)は少将結城忠直に奉仕。慶長17年冬、重臣たちの確執が高じて武力鎮圧の大騒動となり、越前家中の者よりこれを直訴に及ぶに至る。家康・秀忠の両御所による直裁に城主日根備中守へ御預け之節 持家=大膳亮、持俊=角之助(持家の長男)、五郎兵衛(持家の次男)の三人は者内々に御供した事が露し、公儀より御咎め 持家=大膳亮、五郎兵は、永井右近太夫殿へ御預け。 持俊=角之助は、松平右エ門太夫(松平 正綱)へ御預けになる。後赦免。五郎兵は、永井公に奉仕、持家(大膳亮)は、角之助方へ引き移り後病死。
弟の[岩上朝義](梶太夫 隠岐守 後越中守)は、[結城秀康]に仕えて1601年の越前転封に従い、四千五百石を給された。
以上、Wikiより。