稲津重政 (いなづ しげまさ) | げむおた街道をゆく

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稲津 重政(いなづ しげまさ、天正2年(1574年) - 慶長7年(1602年))は、安土桃山時代の武将。日向国の大名伊東氏の家臣。通称は掃部助。清武城主。
若くして才能を見出され、当主伊東祐兵によって家老職に抜擢される。慶長3年(1598年)に清武城主に任じられ、朝鮮出兵にも参陣するなど重用された。
慶長5年(1600年)、石田三成と徳川家康の対立が激化すると、当時大坂にいた当主祐兵の命によって嫡男祐慶が飫肥に戻され、祐兵の工作によって、黒田孝高の軍使宮川某が飫肥に使わされた。重政はこの宮川某と相談し、関東お味方の証として、石田方の高橋元種の持城である宮崎城を攻略する計画を立てた。
10月1日、伊東勢の総大将として3千の兵を率いて宮崎城を攻撃した。守兵は城代権藤種盛の500であり、伊東勢の攻撃により落城した。この戦いをきっかけに伊東氏は島津氏と一時的な対立状態に陥り、重政は佐土原、穆佐(現高岡町)などを約50の小合戦を転戦しながら、宮崎城を守った。
しかし、宮崎城落城の時点で高橋元種は徳川方に恭順しており、本領安堵を約束されたため、宮崎城は高橋元種に返還されることになった。この事がきっかけとなって重政は次第に家中で孤立し、更に伊東祐兵が病死して祐慶に代替わりしたことも拍車をかけることとなる。行状も荒れ始め、藩主祐慶は詰問状を作って重政を罷免しようとするが、重政は聞き入れず、ついに切腹を命じられた。これを聞いた重政はわずかな手勢で清武城に籠城するが、飫肥藩兵に攻められ討死した(稲津の乱)。享年29[1]。


以上、Wikiより。



稲津重政