井戸 良弘(いど よしひろ、天文元年(1532年?) - 慶長17年(1612年?)[1])は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。井戸覚弘の子。室は筒井順慶の姉(『寛政重修諸家譜』)。才助。若狭守。井戸城城主。子に井戸覚弘・井戸治秀など。
ー 経歴 -
大和国の国人領主の一人として筒井氏に仕えて松永久秀と度々交戦していた。のちに井戸城を子の覚弘に譲り、永禄11年(1568年)には筒井氏の影響から離れ、自らは織田信長に仕え、松永氏とも和睦してその影響下に属している。しかし、元亀元年(1570年)に、松永久秀が織田氏から離反したため、再び松永氏の侵攻を受け、同年2月には久秀に差し出していた8歳の娘が殺され、同3月には居城を追われた(『多聞院日記』)。その後、信長との対立で松永氏が没落すると塙直政に仕え、直政の戦死後は再び筒井氏に属した。天正6年(1578年)、それまでの戦功や、直政改易後にその一族を捕縛した功などにより、それまで直政の居城であった山城国槇島城主2万石を信長から任された。天正9年(1581年)の伊賀攻めにも筒井氏配下として従軍している。
しかし天正10年(1582年)、本能寺の変の後に起こった山崎の戦いでは不鮮明な態度をとって(次男・治秀が光秀の娘婿だったとされる)、羽柴軍に与さなかったために改易される。以後、しばらくは奈良に蟄居していたとされるが、順慶の死を契機に秀吉に出仕を命じられ、その家臣となっている。その後、時期は不明であるが細川忠興の家臣となり、関ヶ原の戦いでは、東軍に属した細川幽斎とともに、丹波国田辺城で西軍の小野木重勝軍を相手に篭城戦に参加している。
戦後は大和国に戻り、余生を過ごした。
なお、井戸氏にはこの良弘の子孫で同じく良弘と名乗った人物が数名存在する。(彼の兄にも良弘という人物が存在する)
以上、Wikiより。