一条 房家(いちじょう ふさいえ)は、戦国時代の公卿(土佐国の国司)、大名。土佐一条氏の第2代当主。関白・一条教房の次男。
ー 生涯 -
文明7年(1475年)、関白・一条教房の次男として誕生。
土佐一条氏は、父・教房のとき所領の土佐国幡多郡に下向して在地領主化した公家大名である。房家自身も正二位の高位に昇り、その名門の権威をもって土佐の国人領主たちの盟主として勢力を築き、土佐一条氏の最盛期を築き上げた。本拠地の中村には「小京都」と呼ばれるほどの街を建設した。なお、現在の四万十市にある東山や鴨川という地名は、房家が京都にちなんで名づけた地名であるといわれる。
また、永正5年(1508年)、長宗我部兼序が本山氏によって滅ぼされると、その遺児・長宗我部国親を保護し、その再興を助けた。
天文8年(1539年)、死去。
ー 逸話 -
房家の死から30年後、弱体化した一条氏は長宗我部氏によって滅ぼされた。このとき長宗我部元親は房家の恩から一条氏と戦うと天罰が下るとためらったのを、弟の吉良親貞が天罰なら自分が受けるといって説得し、その言葉の通りに親貞は一条氏の滅亡後まもなく30代の若さで死んだのだ、という逸話がある。
以上、Wikiより。
