井伊直政 (いい なおまさ) | げむおた街道をゆく

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井伊 直政(いい なおまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。井伊氏第24代当主[2]。上野国高崎藩の初代藩主。後に近江国佐和山藩(彦根藩)の初代藩主。
徳川氏の家臣(家臣になった当時は外様)。自身が組織した井伊の赤備えは戦国屈指の精鋭部隊として特に有名である。徳川氏きっての政治家・外交官としても名高い。遠江国井伊谷の出身で若手の武将でありながら、『柳営秘鑑』では榊原氏や鳥居氏と並び、「三河岡崎御普代」として記載されている。また、江戸時代に譜代大名の筆頭として、江戸幕府を支えた井伊氏の手本となり、現在の群馬県高崎市と滋賀県彦根市の発展の基礎を築いた人物でもある。
徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、家康の天下取りを全力で支えた功臣として、現在も顕彰されている。その一例として、滋賀県彦根市では、直政が現在の彦根市の発展の基礎を築いたということを顕彰して、「井伊直政公顕彰式」という祭典が毎年行われている。
大正6年(1917年)11月17日、贈従三位。



ー 生涯 -

家康の家臣になるまで
永禄4年(1561年)2月19日、今川氏の家臣である井伊直親の長男として、遠江国井伊谷(現在の静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)で生まれる。幼名は虎松。井伊氏は先祖代々、井伊谷の国人領主であり、直政の祖父(または一族)井伊直盛は今川義元に仕えて桶狭間の戦いで戦死した。父の井伊直親は、直政の生まれた翌、永禄5年(1562年)に謀反の嫌疑を受けて今川氏真に誅殺される。当時、虎松はわずか2歳であったため、新たに直親の従妹に当たる祐圓尼が井伊直虎と名乗り、中継ぎとして井伊氏の当主となった。
その後、生母が今川氏の家臣である松下清景と再婚したため、虎松は井伊氏の家督相続権を失う。
しかし、やがて井伊氏は井伊谷の所領を失い、虎松も今川氏に命を狙われる日々を送っていたが、新野親矩に救出されて、その後は養母である直虎に育てられた。天正3年(1575年)、徳川家康に見出され、井伊氏に復することを許され虎松を万千代と改めた。さらに旧領である井伊谷を与えられ、家康の小姓として取り立てられた。家督を代行していた養母の直虎が天正10年(1582年)に亡くなると正式に当主となった。

安土桃山時代
万千代は、高天神城の攻略を初めとする武田氏との戦いで数々の戦功(家康の寝所に忍び込んで来た武田軍の忍者の討ち取りなど)を立て、その勇名を轟かせた。天正10年(1582年)、22歳で元服を終え、直政と名乗る。この年、家康の養女で松平康親の娘である花(後の唐梅院)と結婚する。その後、旗本先手役に任ぜられて、家康子飼いの武将である本多忠勝や榊原康政の同僚となる。同年の本能寺の変では、家康の伊賀越えに従い、無事に滞在先の堺から三河国に帰還する。さらに武田氏が滅亡した後、天正壬午の乱で北条氏との講和交渉を徳川方の使者として担当し政治的手腕を発揮、家康が武田氏の旧領である信濃国、甲斐国を併呑すると、武田家の旧臣達を多数与力に付属され、家康の命により山県昌景の朱色の軍装(または小幡赤武者隊)を復活させて井伊の赤備えと呼ばれる精鋭部隊の大将となった。また、同時に井伊谷4万石に加増された。このころから、「兵部少輔(兵部大輔)」を自称する[3]
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの直前、豊臣秀吉は直政を懐柔するべく2月27日に修理大夫に任官させる(藤原姓)[4]。しかし、直政は逆に初めて赤備えを率いて武功を挙げ、一躍天下に名を知られるようになる。また小柄な体つきで顔立ちも少年のようであったというが、赤備えを纏って兜には鬼の角のような前立物をあしらい、長槍で敵を蹴散らしていく勇猛果敢な姿は「井伊の赤鬼」と称され、諸大名から恐れられた[5]。 天正13年(1585年)には別働隊の要素を持った徳川家中最多である1万の兵の侍大将となっていることが確認される。これは並居る譜代重臣である酒井忠次、本多忠勝、榊原康政がそれぞれ5千の兵を任されたことからするとその倍の部隊編成である。また、家康からは、主君の判断を仰がずに軍法も戦をするもしないも直政次第と信頼を寄せられるまでになる。 この年、真田攻めの撤退を指揮するために上田に派遣される。この後、井伊谷6万石に加増される。 天正14年(1586年)10月、家康が上洛し、秀吉に臣従すると、直政の武力・政治的手腕を秀吉は高く評価し、11月23日に従五位下に叙位させ、豊臣姓を下賜した。天正16年(1588年)4月、聚楽第行幸の時に、侍従に任官させた[6]。
直政は新参ながら数々の戦功を評価され、天正18年(1590年)の小田原征伐では数ある武将の中で唯一夜襲をかけて小田原城内にまで攻め込んだ武将としてその名を天下に轟かせる。奥州仕置の九戸政実の乱でも仕置軍の先鋒を務めた。その後、北条氏に代わって家康が江戸に入ると、直政は上野国箕輪城(群馬県高崎市)に徳川氏家臣団の中で最高の12万石で封ぜられる。因みに10万石以上を与えられた者は、直政、本多忠勝、榊原康政の3人のみである。慶長3年(1598年)には、家康の命によって箕輪城を廃し、南の和田城を改築して高崎城と改称して新たな居城とした(地名の由来に関しては高崎市の項目を参照)。この時、箕輪城下に住んでいた民衆達も高崎に移っている。しかし、家康付きの公務が多忙で高崎には腰を落ち付けてはいられなかった。この頃、直政は名護屋城や大坂城などにあって、黒田長政など反石田三成派の諸将と交渉に携わった文書などが多数残されている。特に黒田孝高・長政父子を親徳川に組み入れたことの評価は大きい。秀吉の死後、家康と三成の対立が濃厚になると、僅かな兵のみで上京している家康の身辺に、度々危険が迫る事があったが、その度に直政の機転で難を逃れている。

関ヶ原の戦いと戦後処理
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは家康本軍に随行し、本多忠勝と共に東軍の軍監に任命され、東軍指揮の中心的存在となった。同時に全国の諸大名を東軍につける工作を行い、また合戦においても初陣となる家康の四男・松平忠吉(直政の娘婿)をよく補佐して忠吉と共に当初、東軍の先鋒を任されていた福島正則を差し置いて先鋒を務めた(本来ならば、直政も忠吉も軍令違反で処罰の対象になるが、実は家康が裏で二人と手を引いていて、直政の駆け抜けを認めたため、処罰を命じなかった)。その後の直政と忠吉の行動に関しては、宇喜多秀家・小西行長の軍と戦った、敵中突破退却を図ろうとする島津義弘の軍と戦ったと言う2説があるが、最近では島津軍と戦ったという説が有力であるとされている。この戦いで義弘の甥である島津豊久を討ち取った。しかし、退却する島津軍を百余騎率いて猛追し、遂に義弘の目前まで迫り、いざ義弘討ち取りの命を下した際に、島津軍の柏木源藤が撃った銃弾が右肘関節(記述によっては右肩または左腕)に命中し落馬してしまう。あまりの猛追振りに護衛も兼ねる配下が追い付けず、単騎駆けのような状態であったという。
関ヶ原の戦いで大怪我を負ったにも関わらず、精力的に戦後処理と江戸幕府の基礎固めに尽力し、西軍の総大将を務めた毛利輝元との講和などに務めた。家康への全面的な忠節を誓わせた輝元からは、直政の取り成し、特に、周防・長門の二カ国が安堵された事に大いに感謝され、今後の「御指南」役を請う起請文が直政に送られた。また、小牧長久手の戦いでは直政が交渉にあたり、聚楽第行幸では同じ侍従以上の大名行列に供奉し、昇殿し儀式に列席した縁もあり、長宗我部元親とは入魂の仲であったとされ、その息子で同じく親しい間柄にあり、意に反して西軍に与する事となった長宗我部盛親の謝罪の取次を仲立ちをした。その後、盛親が家臣の讒言から兄を殺害してしまったことにより所領没収となった際には、部下を土佐に派遣し山内一豊の土佐入国の援助にあたった。(浦戸一揆)。その他、徳川氏と島津氏の和平交渉の仲立ち(直政自身は和平交渉が完全に終了する前に亡くなったので、その後の和平交渉の仲立ちの役目は本多正信に引き継がれた)などと、抜群の政治センスや外交手腕を発揮している。また、真田昌幸と次男・信繁(幸村)の助命にも進退を懸けてまで尽力した。これは、東軍に味方した昌幸の長男・真田信之の懇請を受け入れたもので、信之は将来まで徳川家に尽くすだろうと考えての行動だったという。これらの功によって、石田三成の旧領である近江国佐和山(滋賀県彦根市)18万石を与えられ、従四位下に任官された[7]。しかし、従四位下に叙されたのは天正16年(1588年)4月とする文化2年(1805年)に時の彦根藩京都留守居役が禁裡御所御役方より得た旧記(古文書)が有る。[8]。
また、この頃家康が直政・大久保忠隣・本多正信・榊原康政・本多忠勝・平岩親吉ら6人の重臣を呼び集め、自分の世嗣を誰にするか尋ねているが、直政はこの時自分の娘婿である忠吉を推している。しかし結果的には忠隣が推した徳川秀忠が世嗣となった。

江戸時代
慶長7年(1602年)2月1日に、おそらくは長年の家康に対する奉公による過労と関ヶ原で受けた鉄砲傷が癒えないまま、破傷風が元で死去した。直政が死去した当初、地元の民衆達の間で三成の亡霊が城下を彷徨っているという噂が広まって、このことが家康の耳に入り、家康の命によって、佐和山城を始めとする三成に関係する物の全てを廃した。
その後、彦根城の築城が開始されると同時に佐和山藩(18万石)は廃藩となった。代わってこの地には新たに彦根藩(35万石)が置かれた。それ以来、この地は明治時代になるまで井伊氏の藩として大いに栄えることとなった。
家康は、西国の抑えと、非常時に皇室を守るため、京都に近い彦根に代々勤皇の家柄である井伊家を配したと伝えられ、これを見ても徳川家から強い信頼を受けていたと考えられる。
井伊氏の跡継ぎ問題に将軍家が口出しをすることもあった。実際、直政の次男である井伊直孝を彦根藩の第2代藩主(記述によっては第3代藩主)に命じたのは家康である。



ー 人物・逸話 -

直政がまだ家康の小姓だった頃、大久保忠世の陣中に招かれて他の若手の武将とともに芋汁を振舞われた。だが、戦場の事であり味噌は糠味噌、具は芋の葉や茎が混ざったものであった。だが、他の若い武将は芋汁を食べているのに、直政の食は進まない。忠世がどうしたのかを尋ねると、直政は「醤油はありませんか」と応じた。このことを聞いた他の武将達は「ここは戦場だと言うのにそのような物があるわけがないだろう」と口々に直政を非難した。忠世は直政に「同僚の者たちは皆、同じものを食べている。兵士達はこのような物でも満足には食べられない。ましてや農民達の中にはもっと苦しい生活をしている者達もいる。一軍の将になりたいのであれば、このことを絶対に忘れてはならぬぞ。そのためにここへ呼んだのだ」と言った。新参でありながらも若くして選抜され、部下にも厳しかった直政に対する周囲の目は厳しかった。これ以後、直政はよりいっそう自分にも部下にも厳しくなっていくのである(『名將言行録』卷之五十・大久保忠世の項を参照。ちなみに、ここで伝えられる醤油は、味噌を作る際の「たまり」であるため、現在の醤油とは異なる。現在のような醤油が作られるようになったのは江戸時代になってからである)。
伊賀越えに直政は小姓組として従ったが、勇壮な働きを見せ、家康を守ったという。この時の働きへの褒美として家康から孔雀の羽で織った陣羽織を授かった。この陣羽織は現在、新潟県三島郡与板町の歴史民俗資料館に保管されている。
「容顔美麗にして、心優にやさしければ、家康卿親しく寵愛し給い」との記録があるように、美男子として知られ(『甫庵太閤記』、『塩尻』、『徳川実紀』など)、家康が豊臣秀吉に従属する前に、家康に懐柔策のため人質として送られてきた秀吉の母・大政所やその侍女達が、直政に惚れ込んだという(直政のもてなしがとても丁寧だったという理由もある)。
また、人質の大政所を豊臣に返す際に、大政所の懇願で警護を任された。直政の手厚い保護に秀吉は大変喜び、自ら茶を立てて直政の疲れを癒そうとした。そこには、かつては家康の家臣であったが、今は秀吉の下に寝返って家臣となった石川数正も同席していた。このことに我慢ができなくなった直政は数正に向かって、「先祖より仕えた主君に背いて殿下に従う臆病者と同席すること、固くお断り申す」と怒鳴った。これはいかに直政が家康に対して忠義を尽くしていたかを伺える何よりの証拠と言える。なお、数正が秀吉の下に去ったのは天正13年(1585年)で、この事件が起こったのはその1年後の天正14年(1586年)である。
また、数正出奔後は、名実共に徳川家第一の将となった。この時期の内外における名声は、「ほまれ日本(ひのもと)に覆(はばか)る威光無疑(うたがいなし)」(『甲陽軍鑑抜書後集』)というものだった。
直政は家康の寵童だったともいわれている。「万千代(直政)、近年家康の御座を直す」(『甲陽軍鑑』)[要高次出典]。「御座を直す」は、主君の伽(とぎ)のお相手をする隠語として用いる。
天正16年(1588年)に秀吉が聚楽第に後陽成天皇を招き行幸が行われた際に、陪臣では唯一人、有力大名からなる大名行列に参列した。この時に、有力大名並の侍従という官職に就き昇殿が許される公家成という資格を有し、昇殿が許されない諸大夫成とは一線を画する格式にあったことを示す貴重な資料(「聚楽第行幸記」)が残っており、秀吉の信頼の厚さを示している。その聚楽第行幸の席で催された歌会で「寄松祝」のお題を出され、「たちそふる千代の緑の色ふかき 松の齢を君もへぬべし」という和歌を詠んでいる。
小田原征伐の時、秀吉陣営の手薄なのを覗い知り、家康に「いい機会ですから秀吉を討ち取りましょう」と進言したが、「その時に有らず」と戒められたともいう(『常山紀談』[9])[要高次出典]。
その小田原征伐では、唯一城内に攻め入り、四百人の北条方を討ち取り「万事にぬきんで合戦し、天下に誉を得後代に名を残せり」(『北条五代記』)と称揚される働きをした。
関ヶ原の戦いの後、直政は石田三成の旧領を家康から賜ったが、三成は善政を敷いていたため、領民の信望が厚かった。直政はこのことを熟知していたため、佐和山城に入城すると、民政は三成のやり方を踏襲すると触れを出し、領民が三成を弔うことも黙認した。そのため、領民の心をつかむことに成功したという。また、三成が処刑される前、直政は三成の面倒を任されており、あまり三成に好感を抱いていなかったが、三成を手厚く保護した。
家康は自邸の庭近くに直政の家居を作らせて折々通っていた(『徳川実紀』、『天元実紀』)。
直政は徳川家中の中では外様でありながら、徳川家臣随一の領国を与えられていた。このため、三河譜代からの家臣から嫉妬、反発されたが、直政はそれに対して常に家康に奉公することで退けたという。ただし、そのあまりに厳しすぎる奉公ぶり、それは自分だけにとどまらず、周囲にも強要するほどのものであったという。そして直政自身は気性が激しく、家臣のわずかな失敗も許さずに手討ちにすることも少なくなかったため、「人斬り兵部」とも称されたという。また、家臣に気安く声を掛けることも殆ど無かったという(元来、寡黙な性格ではある)。しかし、政治的手腕は非常に優れていたため、箕輪城主の頃は、城下の民衆から慕われていた[10]。
大身になる前の頃、直政がどうしてもとねだるので家康が数ある愛馬の中から、特に栗毛の名馬を直政に与えた。これを聞いた本多重次がわざわざ直政のいるところで、「あのような名馬を万千代みたいな子倅にくれてやるとは、殿も目が暗くなったのではないか」といった意味のことを放言した。年が下って家康が関東に移ると直政は家中一の大身となったのに対し、重次は3000石しか与えられなかった。そして、大身になった直政は重次と顔を合わせた時、「昔、殿が名馬を下さった時に子倅だの何だのと馬鹿になされましたが、このような大身になれたのは、名馬に違わぬ働きをしたからでございます。目が暗かったのは本多殿の方でありましたな」と言い放った。このことから、直政は人に言われたことをすぐ根に持つタイプ、すなわち負けず嫌いであったということが分かる(「井伊年譜」[11])。
毛利家の重臣である小早川隆景は直政の武勇・政治的手腕に関して「直政は小身なれど、天下の政道相成るべき器量あり」と評価したことがある。これは直政がその気になれば、天下を取ることもできるということを意味している。また、隆景だけでなく、地方の武将達も同じようなことを噂していた(『名将言行録』[要高次出典])。
関ヶ原の戦いが終結し、西軍に与した立花宗茂征討軍議が佐和山落城後に行われた時に鍋島勝茂から、直政の作法や容儀や勢いが言葉にも述べられないほど見事であったと賛辞を呈され「天下無双、英雄勇士、百世の鑑とすべき武夫なり」と評された(『葉隠』)。
井伊の赤備えは、戦国屈指の先鋭部隊として天下に名を轟かせていたが、[要出典]家臣達の中には直政による厳しい軍律に耐えられなくなり、本多忠勝の下に去る者達も多かったという。近藤秀用などのように出奔してしまった例もある。筆頭家老である木俣守勝ですら、直政の下にいるのが怖くなり、家康に旗本に戻してくれるように頼んだ。
直政は家臣に非常に厳しく、少しでも戦で失敗をした者がいれば容赦せず処罰し、一軍の将となっても自ら先陣に立って戦うことを好むなど激烈な性格のため、戦の際に陣に留まって指揮を執ることはほとんどなく、筆頭家老である木俣守勝がその役目を果たしたという。
関ヶ原の戦いの後、直政は近江国佐和山18万石を与えられたが、西軍を主導した石田三成の旧領であったため、直政自身はあまり納得しておらず、家康に上野国高崎に戻してもらうように頼んだ。
生涯に参加した57回の戦で軽装備であったにもかかわらず、一度も傷を負わなかった本多忠勝に対して、直政は重装備であったが、戦で常に傷を負っていたという。このように直政と忠勝は度々比較の対象となったりすることがあり、この2人はお互いにライバル同士であったため、あまり仲がよくなかったとされる(記述によっては忠勝だけが直政をライバル視していたとされることもある)。なお、忠勝と同年齢の榊原康政とは、最初はあまり仲がよくなかったとされるが、家康が関東に入国してから共に行動をすることが多くなり、段々と仲がよくなっていったとされている。家康の筆頭家老である酒井忠次も家康と同じように直政に対して暖かい目で見守っていた。ちなみに忠次は直政がまだ一軍の将になったばかりの頃に康政がそのことを妬んだために叱ったことがある(『武功実録』[要高次出典])。
また、康政とは心友だったとされ、その交流の深さを知る上で、康政の次の様な言葉がある。「大御所(家康)の御心中を知るものは、直政と我計りなり」。常々「自分が直政に先立って死ぬようなことがあれば、必ず直政も病になるだろう。また直政が先立てば、自分の死も遠くない」と語り、直政が従軍するとあれば、康政は安心し、康政が従軍するとあれば直政は安堵したという(『武備神木抄』、『名将言行録』)。
ある時、家康は直政の家臣達を1つの場所に集めて、直政の衣服を脱がせて体に残っていた戦傷の一つ一つを涙ぐみながら説明したという。このことを聞いた直政の家臣達も家康を見てもらい泣きをし、自分達も主君である直政のために全力で武功を挙げようという決意をした。[要出典]
関ヶ原の戦いの後、直政は西軍の一員であった島津義弘から家康との和平交渉の仲立ちを依頼された(徳川氏の家臣の中に政治を専門とする本多正信がいるにもかかわらず)ことからその政治的手腕は、他家の者達に知れ渡っていたと思われる。[要出典]
他人を評価することがめったにない家康が秀忠の夫人であるお江に宛てた戒めの手紙の中で、「井伊直政という男は日頃は冷静沈着で口数が少なく何事も人に言わせて黙って聞いているが、局面では的確に意見を述べる。特に自分が考え違いをしている時は余人がいない所で物柔らかに意見をしてくれる。故に何事もまず彼に相談するようになった」と高く評価している(『庭訓状』)。
直政は石川数正と並んで徳川氏の家臣の中でも数少ない外交官として、大いに力を発揮し、また、家康から見て本多正信と並んで天下取りの知恵袋とされていた。[要出典]
直政は正室である唐梅院に対してはかなりの恐妻家で、誰よりも負けず嫌いであった直政もこの唐梅院だけには頭があがらなかったという。直政室(唐梅院)はその侍女が直政の子を孕んだと知ると侍女をその父印具徳右衛門の元に送ってしまった。印具は松平康重の家臣だったので、関東移封の時にその城地・私市(騎西)に移る途上の藤枝宿で直孝は生まれた。その後、直孝はその母の元で育ち、6歳になると母は箕輪城の直政の外出の時を待って直孝を引き渡したが、父直政はすぐに箕輪のとある庄屋にその子直孝を預け置き養育を託した。12歳でやっと直孝は内緒で直政に召し寄せられ直政所用の采配を授けられたが、翌年に直政は他界した[12]。
生前の直政の働きは、家康が幕府を開くにあたっての一番の功労者であると江戸幕府編修の系譜集に記録されている。「国初佐命の功臣第一とよばれしはこの人なりき」(『徳川実紀』)、「天下の大戦にしばしば先鋒の将として勝利を得しこと、誠に開国の元勲なり」(『寛政重修諸家譜』)。


以上、Wikiより。



井伊直政