安東尋季 (あんとう ひろすえ) | げむおた街道をゆく

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安東 尋季(あんどう ひろすえ、生年不詳 - 天文16年2月8日(1547年2月27日)[1])は、戦国時代の出羽国の大名。檜山安東氏の第5代当主。本姓は安倍氏。家系は檜山系安東氏。安東忠季の子だが、一説には安藤重季の三男で忠季の養子となったとも。子に棟季、舜季。通称を安東太郎。檜山屋形、東海将軍と称した。法名は艧即宗丹。
永正8年7月26日(1511年8月19日)に、父忠季の死去を受けて家督を継ぐ。
永正9年(1512年)蝦夷地東部の村長であったショヤ(庶野)、コウジ(訇時)兄弟率いるアイヌ民族が蜂起し、数カ所の館を襲撃するという事件が起きる。上国守護職であった蠣崎光広、義広親子が撃退するも、翌永正10年(1513年)には再度攻撃を始め、松前大館が陥落し、松前守護職の相原季胤らが討ち取られた。空き城となった大館には、翌永正11年(1514年)光広が入城し、尋季に対し上国に加え松前守護職への補任を求めてきた。尋季はこの申請を2度断ったものの再三に及ぶ要請を受け、これを追認したほか、蠣崎氏に蝦夷地を訪れる和人の商船から運上を徴収することを認め、その過半を檜山に送らせた。なお、このアイヌ蜂起を光広による謀略とする説がある。
天文2年(1533年)尋季が山王大権現の勧請の許可をする。天文15年(1546年)津軽深浦森山館に謀叛を起こした森山季定を攻め、蠣崎季広に落とさせた。
天文16年2月8日(1547年2月27日)死去。舜季が家督を継いだ。尋季の治世中に舜季と湊安東定季の女との婚姻が結ばれ、湊安東家と和睦が図られた。


以上、Wikiより。



安東尋季