粟屋勝久 (あわや かつひさ) | げむおた街道をゆく

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粟屋 勝久(あわや かつひさ、生没年不詳)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。若狭国国吉城城主。官途は越中守。



ー 生涯 -
粟屋氏は清和源氏安田氏の末裔で、若狭国守護の若狭武田氏の被官。勝久の前後の系図は不明で、粟屋元隆や粟屋光若との関係も明らかではないが同族と考えられる。
当時、若狭武田氏は、旧守護の武田信豊と、子で現守護の武田義統が対立するなど内乱状態にあった。義統が内乱に勝利した後もなお、若狭西部の有力家臣逸見氏が謀反を起こして独立するなど、領国の統治に窮した義統は、婚姻関係のある越前国守護朝倉氏に援軍を要請する。
朝倉氏の軍勢を若狭国に入れることに反対する勝久は、義統の子武田元明を擁立して抵抗し、朝倉氏が若狭国へ侵攻するとこれを撃退した。しかし永禄11年(1568年)、朝倉氏によって元明は囚われて越前国に連行され、一乗谷の朝倉館に軟禁されることとなった。
朝倉氏による若狭国支配が始まったが、勝久はその後も武田氏家臣として、単独で国吉城に籠し朝倉氏に抗する。織田氏の勢力が拡大すると、元亀元年(1570年)、他の若狭国人衆と共に織田信長に協力。織田氏による越前国へ出兵した際には、国吉城は信長の宿所となった。越前攻めでは一乗谷一番乗りの武勲を挙げ、幽閉されていた旧主の武田元明を救出した。
天正3(1575年)年7月、上洛して元明助命の嘆願を果たしたものの、武田氏による若狭国領有は許されず、若狭国は織田氏の重臣・丹羽長秀に任されることとなった。天正9(1581年)年の天覧馬揃えに見られるように、粟屋勝久ら若狭武田氏旧臣は丹羽長秀の与力として存続している。
本能寺の変後は羽柴秀吉に仕えて馬廻役を務めた。のちに国替えとなり、国吉城には木村常陸介(木村重茲)が入部している。時期は明確ではないが、本能寺の変後、まもなく没したらしい。
なお、孫の助太夫は豊臣秀頼に仕え、大坂の役では豊臣方として戦い、戦後は藤堂高虎に仕官した。 同じく孫の粟屋勝長は臼杵藩に仕え、後に子孫は明治維新に至り廃藩されるまで、家老職を勤めた。


以上、Wikiより。



粟屋勝久