安宅 冬康(あたぎ ふゆやす)は、戦国時代の武将。三好氏の家臣。三好元長の三男。安宅氏へ養子に入り淡路水軍を統率し[1]、三好政権を支えたが、兄・三好長慶によって殺害された。経緯・理由については様々な見解があり不明な部分が多い。
ー 生涯 -
享禄元年(1528年)、細川晴元の重臣・三好元長の三男として生まれる。兄に三好長慶、三好実休、弟に十河一存、野口冬長がいる。
安宅氏は淡路の水軍衆である。長兄の長慶は当時、細川氏などによって畿内を追われ淡路島にいた。長慶は冬康をこの安宅氏の当主・安宅治興の養子にして家督を継承させた。穏やかで優しい仁慈の将であり、人望が高かったという[3][4]
以降、三好家は長兄の長慶が摂津・河内・和泉の兵を、次兄の三好実休が阿波衆を、冬康が淡路衆を、弟の十河一存が讃岐衆を率いるという体制で各地を転戦した。冬康は大阪湾の制圧や永禄元年(1558年)の北白川の戦い、永禄5年(1562年)3月の畠山高政との戦い(久米田の戦い)に従軍、特に畠山高政との戦いでは次兄の実休が敗死すると冬康は阿波に撤退して再起を図り、6月には再び高政と河内で戦い勝利している(教興寺の戦い)。
その後、弟・一存や次兄・実休、甥で長慶の嫡男・三好義興が相次いで死去すると、三好一族の生き残りとして長慶をよく補佐したが、永禄7年(1564年)5月9日に長慶の居城・飯盛山城に呼び出されて自害させられた[5]。享年37[6]。跡を子の安宅信康が継いだ。
ー 人物・逸話 -
冬康は平素は穏健かつ心優しい性格で、血気に逸って戦で殺戮を繰り返し傲慢になっていた兄・長慶に対し鈴虫を贈り、「夏虫でもよく飼えば冬まで生きる(または鈴虫でさえ大事に育てれば長生きする)。まして人間はなおさらである」と無用な殺生を諌めたという逸話が残っている[14]。
『南海治乱記』には、「三好長慶は智謀勇才を兼て天下を制すべき器なり、豊前入道実休は国家を謀るべき謀将なり、十河左衛門督一存は大敵を挫くべき勇将なり、安宅摂津守冬康は国家を懐くべき仁将なり」と記されている[15]。
冬康は和歌に優れ「安宅冬康句集」「冬康長慶宗養三吟何人百韻」「冬康独吟何路百韻」「冬康賦何船連歌百韻付考証」など、数々の歌集を残し、「歌道の達者」の異名を持った[16]。中でも代表的な歌は、「古を 記せる文の 後もうし さらずばくだる 世ともしらじを」である。この歌には冬康の温和な性格がよく現れている。歌の師は里村紹巴、宗養、長慶である[17]。なお、細川幽斎は著書『耳底記』の中で、安宅冬康の歌を「ぐつとあちらへつきとほすやうな歌」と評している[16]。
冬康と、兄の三好実休が和歌のやりとりをした逸話は、『足利季世記』『続応仁後記』『三好記』『阿州古戦記』『三好家成立之事』『十川物語』など、いくつかの軍記、史料に残っている[18]。中でも、実休が恩人細川持隆を殺したことを悔やみ、「草枯らす霜また今朝の日に消えて 報いの程は終(つい)にのがれず」と歌を詠んだのに対し、冬康が「因果とは遥か車の輪の外を 廻るも遠きみよし野々里」と歌を返したという話が知られる[16]。ただし、この歌は、「報いの程は終にのがれず」が「因果は斯(ここ)に廻りに来にけり」であったりするなど、歌の内容が史料によって差異があり、またその逸話についても、実休が夢の中で父三好元長と出会い、彼からこの歌を聞かされて、冬康に話したところ、冬康が返しの歌を詠じたという話にしているものもある[16]。
以上、Wikiより。