足利 晴氏(あしかが はるうじ)は、戦国時代の第4代古河公方(在職:1535年 - 1552年)。
ー 生涯 -
永正5年(1508年)、足利高基(初名は高氏)の嫡男として生まれる。幼名は亀若丸。後に将軍足利義晴から偏諱を賜り晴氏を名乗る。
享禄4年(1531年)、関東享禄の内乱を経て、古河公方の地位を確立[1]。
天文7年(1538年)の第一次国府台合戦で北条氏綱と同盟し、父の高基の代から敵対していた叔父で小弓公方を自称していた足利義明を滅ぼした。『伊佐早文書』によれば、晴氏は合戦の勝利を賞して氏綱を関東管領に補任したという[2][3]。
しかし氏綱の死後、跡を継いだ北条氏康と敵対し、関東管領上杉憲政や上杉朝定と同盟を結んで、天文15年(1546年)にともに北条領へ侵攻するが、河越夜戦で大敗すると、古河公方としての力を失ってしまう。そして命は助けられたものの、天文21年(1552年)に公方の座を子の義氏に譲ることを余儀なくされた上で、天文23年(1554年)には古河城を攻められ、氏康によって相模国波多野(神奈川県秦野市)に幽閉された。
弘治3年(1557年)7月、古河城復帰を許されたが、9月には氏康によって廃された嫡男・藤氏の義氏打倒のクーデターが発覚した。
晴氏は再び拘束され、栗橋城主・野田氏のもとに預けられた。のちの永禄3年(1560年)5月27日、元栗橋(茨城県五霞町)の「嶋」にて死去。[4]
享年53。千葉県野田市関宿台町の宗英寺に五輪塔が残る。
以上、Wikiより。