浅利 頼平(あさり よりひら、生年不詳 - 慶長3年(1598年))は、安土桃山時代の武将。浅利勝頼の長男。出羽国の豪族浅利氏の最後の当主。本名は久義(ひさよし)
ー 生涯 -
天正10年(1582年)、父・勝頼が安東愛季に討たれて以来、被官として従属していたが、独立心が強く、お家再興を謀る頼平は次第に比内郡の安東氏離脱を画策する。そうした動きを察知した安東実季は、文禄年間に豊臣秀吉の惣無事令(私闘禁止令)発布中にもかかわらず、比内浅利領に攻め入る。
文禄5年(1596年)2月、安東・浅利合戦の停戦命令、同年4月には紛争の裁定が下り、頼平の蟄居とともに秋田安東氏の軍役指示に従うよう決まる。しかしこの紛争は収まりがつかず、中央政権の中で再度くすぶり始める。慶長元年(1596年)12月、片桐且元が仲裁に入るが、慶長2年(1597年)9月秋田・浅利紛争はさらに続き、浅利頼平は被害状況を報告する。この紛争を巡り豊臣政権の裁定は、秋田安東氏の肝煎は佐々行政で長束正家・木村重茲が支持、浅利方は浅野長吉が肝煎で前田利家や徳川家康が暗に支持という矢留(停戦)趨勢となる。
紛争解決が膠着している最中の慶長3年(1598年)1月、陳情のため上洛した頼平は突如急死。当主を失った比内浅利氏は事実上瓦解した。秋田安東氏の毒殺説が流れたのに対して、慶長4年(1599年)3月、実季は阿部正勝へ弁明書を提出。それによると天正18年から文禄5年までの浅利氏物成未進分があり、これが紛争の原因であり未解決のうちに頼平は死去したと報告された。
以上、Wikiより。