浅野長政 (あさの ながまさ) | げむおた街道をゆく

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浅野 長政(あさの ながまさ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。豊臣政権の五奉行筆頭。常陸真壁藩主。
長政は晩年の改名で、初名の長吉(ながよし)を名乗っていた時期が長い。(長政に改名するのは秀吉死後)



ー 生涯 -

家督相続から織田家臣へ
尾張国春日井郡北野(現在の愛知県北名古屋市)に宮後城主・安井重継の子として生まれる。織田信長の弓衆をしていた叔父・浅野長勝に男子がなかったため、長勝の娘・やや(彌々)の婿養子として浅野家に迎えられ、のちに家督を相続した。同じく長勝の養女となっていたねね(寧々、のちの北政所、高台院)[1]が木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に嫁いだことから、長吉は秀吉にもっとも近い姻戚として、信長の命で秀吉の与力となる。
天正元年(1573年)、浅井長政攻めで活躍し、秀吉が小谷城主(のちに長浜城主)となると近江国内に120石を与えられた。

豊臣家臣として
信長の死後は秀吉に仕え、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで戦功を挙げて、近江国大津2万石を与えられる(初めは瀬田城に入ったが、のちに坂本城さらに大津城へと移った)。
天正12年(1584年)には京都奉行職となり、のちに豊臣政権下で五奉行の筆頭となる。長吉は、その卓越した行政手腕を買われて秀吉に命ぜられて太閤検地を実施する。また、東国の大名との関係も深く、豊臣政権が諸大名から没収した金銀山の管理を任されていた。
天正14年(1586年)、秀吉の妹・朝日姫が徳川家康の正室として迎えられた際は、浜松まで赴いた。
天正15年(1587年)、九州征伐などでも従軍して活躍し、同年9月5日、若狭国小浜8万石の国持ち大名となる。
天正16年(1588年)、従五位下・弾正少弼に叙任される。
天正18年(1590年)の奥州仕置では実行役として中心的役割を担った。取次役として南部信直との関係を強め、葛西大崎一揆や九戸政実の乱へ対処した。
天正20年(1592年)、豊臣姓を下賜された。
文禄2年(1593年)、朝鮮出兵でも功績があり、加藤光泰の死後に収公されていた甲斐国府中21万5千石を与えられて甲府城に入る。東国大名の取次役を命じられ、南部信直、宇都宮国綱、那須資晴、成田氏長らを与力とするが、その職務実施状況により担当の伊達政宗より絶縁状を突きつけられた。長政は上方に詰めていることが多く、甲斐支配は嫡男の幸長が在国して行った。浅野氏は近世に確立した地域区分である九筋二領にそれぞれ国奉行を配置し、郡内領や河内領においても支配機構を整えた。さらに甲斐における太閤検地の実施や甲府城の修築を行い、甲斐支配を進めた。
五大老筆頭の徳川家康とは親しい関係にあり、秀吉死後は同じ五奉行の石田三成と犬猿の仲にあったとされているが、これには近年になって疑問も提示されている。
慶長4年(1599年)、前田利長らとともに家康から暗殺の嫌疑をかけられて謹慎し、家督を幸長に譲って武蔵国府中に隠居した。

関ヶ原の戦い
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは家康を支持し、家康の三男・秀忠の軍に従軍して中山道を進み、幸長は東軍の先鋒として岐阜城を攻め落とし、関ヶ原の本戦で活躍した。戦後、幸長はこの功績により紀伊国和歌山37万石へ加増転封された。長政自身は江戸幕府の成立後は家康に近侍し、慶長10年(1605年)には江戸に移った。
慶長11年(1606年)、幸長の所領とは別に常陸国真壁5万石を隠居料として与えられた。
慶長16年(1611年)、真壁陣屋(下野国塩原温泉ともいわれる)にて死去。享年65。真壁5万石は三男の長重が継いだ。



ー 逸話 -

石田三成について研究している白川亨は、関ヶ原の戦いの前の長政謹慎事件は、長政や前田利長を三成らの反家康派から分離させようとした家康の陰謀、挑発であるという説を提唱している。長政の嫡子・幸長は三成と犬猿の仲だったため、長政は両者の間で苦悩していたという。長政が関ヶ原の後における大坂城(江戸城説も)の猥雑な雰囲気を「三成が存命の頃はこのようなことはなかった」と嘆いたとの逸話が残っている。しかし、ある武将が敵将を高く評価することはよくあることであり、長政が三成を評価していたとしても、それが仲が悪くないということにはならないという指摘もある。
小田原征伐で秀吉が沼津城に進軍していた際、家康は秀吉の案内役として伊奈忠次を派遣して舟橋を架けさせた。側近の三成が秀吉に注意を促すと秀吉は用心して渡ろうとしなかった。そこで長政が自らの手勢を率いて先に渡り、舟橋の安全性を証明したという(大道寺友山の『異本落穂集』より)。
小田原征伐の際、秀吉は家康の居城である駿府城に宿泊する予定だった。しかし三成が「駿河大納言殿(家康)は北条左京(北条氏直)の岳父であり、内応している疑いがございます」と述べた。すると長吉は「大納言殿はそのようなことをされる御方ではない。そんな偽りを信じてはいけませぬ」と秀吉に直言した。秀吉は長吉の言葉を容れて駿府城に入城し、家康から手厚いもてなしを受けたという(『異本落穂集』より)。
秀吉が朝鮮出兵を開始し、文禄の役で自ら渡海すると言い出した。三成は「直ちに殿下(秀吉)のための舟を造ります」と述べたが、長吉は「殿下は昔と随分変わられましたな。きっと古狐が殿下にとりついたのでしょう」と述べた。秀吉は激怒して刀を抜いたが、長政は平然として「私の首など何十回刎ねても、天下にどれほどのことがありましょう。そもそも朝鮮出兵により、朝鮮8道・日本60余州が困窮の極みとなり、親、兄弟、夫、子を失い、嘆き哀しむ声に満ちております。ここで殿下が(大軍を率いて)渡海すれば、領国は荒野となり、盗賊が蔓延り、世は乱れましょう。故に、御自らの御渡海はお辞めください」と諫言したという(『常山紀談』)。


以上、Wikiより。



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