赤松晴政 (あかまつ はるまさ) | げむおた街道をゆく

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赤松 晴政(あかまつ はるまさ、永正10年(1513年)? - 永禄8年1月16日(1565年2月16日))は、日本の戦国時代の武将、大名。赤松氏の当主。赤松義村の子。赤松義祐、赤松則家、女子(赤松政秀妻)、女子(三木通明妻)の父。才松丸。次郎。初名、政村(まさむら)、政祐(まさすけ)。従五位下。左京大夫。播磨国、備前国、美作国の守護。播磨置塩城を居城とする。生年は1495年説もある。



ー 略歴 -
守護代の浦上氏との対立に敗れ、強勢隠居へ追いやられた父の義村から、才松丸(晴政の幼名)は1520年に政敵の浦上氏の拘束下で、わずか8歳という幼少で家督を譲られる。その備前守護代・浦上村宗への再反攻に失敗した父・義村を、翌1521年9月に殺されている。山名氏の侵攻に対抗するため一時的に村宗と手を結んだこともあるが、山名氏の脅威が去ると再び争い、一時は居城の置塩城を追われ美作の新庄山城へ避難を余儀なくされたこともある。
1531年、細川晴元と対立する管領細川高国を擁した村宗が摂津国へ侵攻すると、村宗たちの後詰めとして参戦した政祐(当時の諱)だったが、実は堺公方の足利義維へ密かに質子を送って裏切りを確約していた。同年6月4日、神呪寺に布陣していた政祐が晴元方に内応して高国・村宗軍を背後から攻撃。晴元方からも挟撃された高国・村宗軍を壊滅させ、村宗は戦死。高国も自害へと追い込んだ(大物崩れ)。
これにより、ある程度は実権を回復したものの、村宗の子である浦上政宗や浦上宗景との対立はその後も続いた。さらに1538年から始まった、出雲国から尼子詮久(後の尼子晴久)による侵攻では西播磨の龍野城まで奪われると、晴政の領国は混乱し、一時別所氏を頼って三木城に逃れた。やがて別所氏も尼子氏と通じたため、堺へ逃亡することになる。
1540年から翌年にかけての尼子氏の安芸国遠征失敗(吉田郡山城の戦いで、毛利元就支援の大内義隆方の陶隆房(後の陶晴賢)の軍と会戦した尼子氏が大敗。尼子久幸(経久の弟)が戦死)によって、播磨から尼子氏が撤退。領国の危機は去ったとはいえ、赤松氏の権威失墜までは止まらなかった。なお、将軍足利義晴より「晴」の字を賜り晴政(はるまさ)と改名したのもこの時期である。
1552年には尼子晴久が備前・美作守護職に任ぜられた事で、晴政は守護としての2国の権限を喪失する。残る播磨での主権も政宗に奪われ続けており、1558年には政宗に擁立される嫡子赤松義祐とやむなく対抗する為、娘婿の赤松政秀の居城龍野城に逃れた。政秀の庇護下で義祐・政宗と争った晴政だったが、1565年1月16日に死去した。
墓所は松安寺(現在は廃寺)に存在する。


以上、Wikiより。



赤松晴政