100610サッカーが強い狩猟民族の末裔 | 阿岸鉄三“わたしの視点・視座・視野”

100610サッカーが強い狩猟民族の末裔

100610サッカーが強い狩猟民族の末裔

FIFAWorld Cup Soccerが始まる。日本チームは、どこまでやれるか。対コートジボアール戦後の63日の朝日新聞に書かれていた記事に興味をもった。トルシェ:「がんばるという感情ではなく。。。100%の気持や体力を必ずしもださなくても、時間とスペースとエネルギーを効果的に使えた」 。オシム:「力をセーブするべきところをわかっていない」(「がんばってくれた」けれど:朝日新聞2010631322頁)。二人のいっているのは、がんばれといわれると、真面目にがんばるだけの日本人の気質を指しているのであろう。メリハリをつけて、必要なときにだけ集中して全速力で走る走りかたを理解しないことを、いっているのであろうと思う。わが意を得た感じがした。岡田監督が、日本人監督として有能であっても、良い成績を残せないのではないかと危惧している。彼は、日本人であるからだ。

サッカーの原型は、なにかを守るゲームであると書いたものを読んだ覚えはあるが、わたしには、基本的に狩猟民族が野獣という標的を狙うグループによる共同作業の名残りであるように見える。

ゴールに球を蹴り込むのは、決定的な瞬間に槍・銛を力強く獲物に投げ刺す行為を思わせる。必殺のチャンスを逃してはならない。彼らの祖先は砂漠に住んでいたから、この機会を逃したら、いつまた獲物に遭遇できるか分からない。下手をすると、飢えて命を落とすかもしれない。この感覚は、遺伝子的に組み込まれている。天地創造から、世紀末まで一直線に進むとする思想をもっている。

 一方で、今でも60%以上が森林という世界有数の森林地帯である国土に住む日本人は、森林を切り拡げて田畑を作った農耕民族の遺伝子を背負っている。皆でそろって、種を撒き、そろって実を収穫することは知っているが、一瞬に賭けて、食べ物を収得する感覚は育たない。みんなで球を回すことができても、一瞬の機会を逃がさない鋭い感覚で、標的を獲得することは、必要がなかったから身につかなかった。森林は、食物源としては豊かである。冬が来ても、すこし耐えれば、食べ物の豊かな春は必ず巡ってくる。円環的思想が発達した。

森本・本田は、狩猟民族末裔の間で、そこそこの活躍をしても、農耕民族末裔のなかに帰ってくると、すぐに、そのなかに溶け込んでしまう。その方が自然で、気が通い易く、居心地がいいから。。。

まわってくるパスのチャンス・スペースも狩猟民族的でない。来週から、始まるサッカーの結果を、どう解釈するか。