最近、この本は純文学であると言われた。
というのは、私はこの作者の直接の知り合いであるMさんと知り合いであるため、Mから「純文学なんだってー」と聞いて、そういえば純文学っぽかったなぁと思い出した。
ところが、正直この本は純文学らしくはない。笑
純文学の定義は様々だが、本書のように恋人を妊娠させたり、役人を殴って刑務所に入るのは純文学というには激しすぎる気がする。
じゃあ、どういうのが純文学なんだよ?
というと、私の読んだ中でメチャクチャ有名なやつは、「伊豆の踊り子」「銀の匙」「こころ」あたりだろうか。
しかし、ハッキリ言っておく。
全く面白くない
夏目漱石のこころは第三章(教科書で習った先生の遺書のパート)は面白いが、1章と2章は別に面白くも何ともない。
伊豆の踊り子と銀の匙に関しては最初から最後まで退屈である。
こんなことをいうと、全くの無教養であると思われるだろうが、仕方ない。
ダメな物はダメ。食べ物の好き嫌いと同じである。笑
純文学は話の起承転結がほとんどない。
悪く言えば、ダラダラ書いているだけである。
ところが、、、
有島武郎の「或る女」という本がある。
これは、アンチ純文学とも言える私に、国語教師の友人が進めてくれた本である。
これは、ヤバい本だった(いい意味で)
鳥肌ものだった。
怖いのである。
容姿端麗で才気溢れる女主人公の葉子がどんどん落ちぶれていく様子を見事に書いている。
主人公は産まれる時代を間違えてるので、現代の感覚で読むとまた何とも言えない。
周りはいい人ばかりなのに、葉子が勝手に落ちていく様子はかなり気持ち悪さを感じる。
ということで、実は今では純文学に対する考えはすっかり変わっている。
(楽しむ視点が変わったというべきか)
本物の日本語、文章の魔術、圧倒的文章力などに触れたい人は純文学を読むべき。
申し訳ないが、文章力という点において、
冒頭の「砂川文次」と「川端康成、中勘助、夏目漱石、有島武郎」などは比較対象にならない。
(まぁ、当たり前なんだけど、、、)
そのことは、読めば誰でも実感できるはずである。
何でもいいので、一度本当の純文学をじっくりと読んでみることを勧める。