日本人の哲学者である三木清の著者「読書と人生」を読んだ。


三木 清(みき きよし、1897 - 1945
哲学者評論家法政大学法文学部教授。京大哲学科卒。現在の京都大学で西田幾多郎に、ドイツ留学中にはハイデガーに師事。
戦時中に治安維持法違反で保釈逃走中の知人を支援したことで逮捕拘禁され獄死。



本書は、以前紹介したショーペンハウアーの「読書について」と内容が結構被っている


筆者もドイツ留学したからか、あるいは大体みんな同じような事を考えるからなのか、、、



いずれにしても、重複しているということは重要なことに違いない!



  1.専門家レベルになれ


筆者は「自分に立脚」することの重要性を説いている。




自分の思想の根をしっかりと張りめぐらせ、そこから、枝や葉を生やしていくということ。




そのためには、何か1つの学科を選んで深く研究し、できれば専門レベルに到達することとしている。




なぜ専門かというと、

普遍と特殊は結びついて存在する。普遍があるから特殊が存在する。逆もまた然りである。




特殊なものから普遍を見いだす目を養うことが重要である。




  2.読みまくる


いきなり専門レベルに到達するのは無理。




例えば、なんの素養・下地もない人が古代ギリシア哲学の専門家になろうとする




そこで、プラトンやアリストテレをひたすら読みまくってもたぶん頭に入らない(というか、一冊読み切ることすら難しいと思う)。




筆者は、本をひたすら読みまくる「濫読」を推奨している。



確かに、むやみやたらに読みまくるのはよくない。本来なら一冊の本を何度もじっくり読むことが正解である。



しかし、数をこなさなければ、自分なりの読書法を確立できず、読書の習慣もつかない。一般教養も身につかない。
そもそも良書に巡り会うことすらできない。



ということで、
特に若いうちにとにかく本を読みまくる事が望ましいという。



  3.筆者と対話する


真の読書においては、著者と自分との間に対話が行われる。


著者の真意を理解するためにも客観的に読む必要がある。そのためにも、繰り返し読むこと。


サムネイル
 

ちなみに、筆者は何度も読むものは古典(古書)がよいとしている。

この辺がショーペンハウアーと同じや。


そして、読み方は恣意的にであってはならない。人から何かを学ぼうという態度で書物に臨む。



とはいえ、単に受動的ではなく、絶えず考えながら発見的に読む。



この意味で、著者と自分との対話になる。



この対話の中に読書の真の楽しみが見出される。


  4.まとめ   


・自分の軸を作るため、ある分野において専門レベルになる。



・普遍的な知識(一般教養)も培う必要がある。



・若いうちはとにかく本を読みまくる(濫読)。



・発見的な態度で読む。そして、何度も読む。