【ワーキングママの意見】
・専業主婦は社会に依存している
(所得税など払わず、医療・福祉等のサービスを享受するから)
・子どもは保育園に入れたほうが社会性が身につく
・専業の状態で旦那に浮気されて離婚されたら路頭に迷う
【専業主婦の意見】
・子どもが寂しいのに可哀想、ひどい親。
・自分のキャリアなんかのために大切な子どもを犠牲にしている。
・子どもとの時間は一瞬で貴重
とのこと。
ただし、
専業には専業の悩みもある。
妻も「今のままでいいのか」と常に考えている。
その辺が互いにぶつかる原因だと思う。
どっちが正しいのか?
ちょっと考えれば分かることだが、この議論は永遠に決着がつかない。
「ワーキングママの意見」と「専業の意見」はどっちも正しい気もするし、どっちも間違っている気もする。
そもそも、おかれている環境(親族、住んでいる場所、収入、財産、夫の仕事など)、親の考え方、子どもの性格など土台が何もかも異なる
その土台の上で一色たんに議論して決着をつけることは極めて難しい。
いずれにせよ、2つの意見は両方とも普遍性を持っていないことは間違いない。
カント哲学「認識できないこと」
ここから、ようやくお勉強の時間。
※このブログは、あくまでもお勉強ブログなので、ネットの論争や風潮(と、その結論)とか正直どうでもいい笑
カントはその主著「純粋理性批判」において、人間が認識できることと、認識できないことを明確に分けた。
この本により、古代から議論されてきた形而上学(宇宙、魂の不死、神の存在証明)にある程度の決着がつき、カント以後議論するものはほとんどいなくなった。
もっとも、カントは自然認識についてしか述べておらず、社会認識については触れていないため、以下からは↓の筆者の解釈
人間が共生するためは、共通認識が必要である。
その認識には普遍性を持つものと普遍性を持たないものがある。
人殺しNGは法律で明文化されていることから明らかに普遍性を持っている。
じゃあ、本題である母親としての育児・働き方に関しての考え方は普遍性を持っているのか?
「2つの意見は両方とも普遍性を持っていないことは間違いない」と先述したとおり。
普遍性を持ち得ないことに関しては、
正しく「認識できないためあれこれ考えてもしょーがない!」
ということになる。
「普遍性を持ち得ない以上、異なる信念を認め合って平和共生していくしかない」というのが筆者のカント哲学の解釈である。
いずれにせよ、
・専業主婦は社会に依存している
・子どもが寂しいのに可哀想、ひどい親。
のように、普遍性を持たない認識において相手を批判、批難、攻撃することは間違っているということになる。
おしまい