再就職後秋の話が続きます。

 

 8月はお盆休みなどがある関係で比較的業務は少ない。浜中の契約期間満了が迫ってきたので仕入の分担比率を私が3分の2まで引き上げ、浜中には業務の引継ぎなどを中心に進めてもらうことになっていた。私は1通りオフコンも取り扱うことができるようになっていたので、浜中は徐々に残りの有休を消化し始めることになった。もう婆須にきつく言われてもあと1ヶ月ちょっとと割り切って接していた。各種経費のチェックは婆須を避けて私に持ってくることが多くなっていた。浜中の契約が満了になるとこれらの作業も担当することになるので請求書との照合をしながら点検を行った。

 

 浜中は派遣社員であることから、自分の仕事をこなすこと以外には非協力的だった。派遣社員と言うと大手から見れば賃金が安くて切りやすいことで問題になったことがあるが、中小企業から見ると人件費はむしろ直接雇用よりも高くなる。これは派遣会社の取り分や社会保険料なども含まれるからであるが、雇用契約はあくまでも派遣元の会社と結んでいるので派遣先である会社は派遣元に人材派遣契約に基づいた給与を支払うことになる。派遣元はこの給与を一部ピンハネして派遣労働者に賃金を支払う。

 

 全員がそうだと言うつもりはないが、派遣社員は上記理由によりどうしても派遣先の社員であると言う感覚は乏しくなる。ただ契約期間は守らないと次の仕事が来なくなるので契約期間が来て続ける気がなければ別の職場を紹介してもらえることは派遣社員の数少ないメリットの1つである。浜中も多くの職場で働いた経験があるようで対応は丁寧だったが、社員がごっそり抜けた後のパニック期に来て婆須にもかなりきついことを言われていたようなので1年の契約期間が切れる9月の末で契約を更新しない意思表示を早くからしていた。

 

 浜中と鳥谷との関係は良かったので、鳥谷は寂しそうにしていたが、浜中は9月中に業務を私に引き継いでさっさと次の職場を見つける準備をしていた。

 

 9月には各種経費の計算のやり方を教えてもらい一緒にやることになった。ガソリン代などは営業担当者ごとに計算しなければいけないので単純だが処理はかなり面倒である。

 

 この会社は20日締切なので9月締切分の仕入業務は実質ほとんど私が担当することになり、浜中には少し手伝ってもらう程度になる。社長は結構義理堅い性格なので誰が辞めるときでも、

 

「寂しくなるな」

 

が口癖だった。もっとも京都の人間なので本心で言っているかどうかは怪しい(←営業も事務も定着率は悪い)。気性は荒く、仕事が思うように進まないと大ベテランの婆須にでも厳しく言う。浜中が言うには作った書類に大きく×をつけられて返ってきたことがあるという。

 

 浜中がいなくなると婆須の罵声は私に集中することだけは間違いなさそうだった。私は10月以降は忙しくなる上にさらに人間関係が難しくなることは必至だった。私は本社で唯一の正社員なので責任も重い。婆須は、

 

「私の後継をやるなら、どんな情報にもアンテナを張り巡らさないと難しいよ」

 

と言うなど自らの院政を確実にするために少しずつ私のプライドを削り始めていた。パターンが変わるとパニックになる私は今後さらに苦しむことが確実になった。

 

 浜中は9月末の最終出勤日には笑顔が目立つようになっていた。やっとこの職場から逃れられると安堵しているようだ。終業時間の午後6時になると社長がやってきて花束を手渡していた。机の整理が1通り終わったら婆須と私に挨拶をして帰っていった。

 

 10月からは私が浜中のいた席に移動して業務をすることになる。灼熱地獄からは逃れられるが婆須の隣の席で常に婆須の監視下で仕事をしなければいけなくなった。これはかなりのプレッシャーだった。

 

 人間関係がうまく作れないまま仕事だけが忙しくなる状態がこの後続くことになりました。夏に忙しかったオークションは通常並みに戻りましたが家に帰ってからものんびりする余裕はありませんでした。状況に応じて臨機応変な対応が思うようにできない私は次第に厳しい立場に立たされることになります。

 

 

 話はまだまだ続きます。