再就職後春の話が続きます。

 

 私はこの年の4月に再就職が難航することも想定して国民年金保険料をクレジットカードで1年分一括払いにしていた。それが5月に再就職が決まったことで第2号被保険者(厚生年金加入者を指す)になったので、既に払い込んだ国民年金の保険料は4月分を除いて還付されることになった。還付の請求書が自宅に送られてきたらそれに書いて出せば1ヶ月後くらいに現金で振り込まれる。通常クレジット売上の場合はクレジット会社にマイナス売上を計上するがそれをしなかったので事実上クレジットカードで現金を買ったのと同じことになった。カードのポイントもそのままもらえるので好都合だった。

 

 私は前回も書いたがフルタイム勤務のかたわら趣味と実益を兼ねるオークションの処理もやらなければならず大忙しになっていた。ちょうど扱う商品の性質上5月頃から注文が増えるのでそれもミスのないように確実にこなさなければいけなかった。もちろん本業でもミスのないように気をつけなければいけない。週末は土日も商品の仕入に走り回るなど週に休みが1日もない日も多くなっていた。週末の休みは自分の自由にできるので仕事のストレスほどではないが移動範囲が広いので肉体的に疲れる。

 

 この時には荷物は全部郵便で出していたので、仕事が終わってから梱包をして集荷に来てもらうか時間外窓口に差出に行くことが多くなっていた。集荷までに梱包が間に合わずやむなく時間外窓口(24時間開いている)に行かなければいけないこともあった。のんびりする時間がない分時間が経つのも早く感じた。

 

 2ヶ月目になると浜中と仕入の業務を分担しながら私が専務などから依頼された資料作成や既存の資料のフォーマットの変更などもやるようになった。私はワードやエクセルは一応人並みにはできるが、分からないことも多いので、マニュアル本も自分で買って事務所でみんなが見られる状態にして置いていた。浜中や鳥谷には見たいときには自由に見て下さいと言っていた。婆須は基本的にデータの作成はできるところはするがフォーマットの作成などはできないので、浜中や鳥谷、私が必要に応じて資料をエクセルなどで作成することになる。

 

 私はこのときには本社では唯一の正社員だが、一番立場は弱いというねじれた状態になっていた。ただ正社員と言うことで責任はかなり重くなっていた。毎日の掃除は誰よりも早く出勤して進んでやるよう努力していた。ただ現金出納など重要な部分は婆須は手放そうとしない。まずは面倒な交際費や諸経費の計算などから私に渡すことになった。この会社には子会社があり、2社に分けた管理が必要になるので(←税金対策の関係上決算期が異なることが多い)やや煩雑にはなるがそんなに難しくはない。少しでも税金がかからないような形で調整する。この頃には1人5000円までなら全額損金算入できる制度があるので、少し無理矢理でも人数を増やすなどして会議費や福利厚生費などをバランスよく配分する必要がある。課税対象になる接待交際費は免税範囲内の360万円以内に収まるように計算するよう言われていた。

 

 この年はシステムの変更をやることが決まっていてその準備に浜中は参加しないと言っていたのでそれは私が引き継ぐことが決まっていた。この年から3ヶ月に1回全体の会議をすることになっていたので8月の会議後の懇親会場の選定を私がやることになった。それが決まったら社内案内の書類作成などの準備も必要になる。

 

 そのように公私共に忙しくなっていたときに高校生のときの同級生で親友の平岡君からバーベキューの誘いが来たので行くことにした。兵庫県の三木市のキャンプ場でやるらしい。朝から行くので前の日に近くに行って1泊することになった。これは早く帰らないといけないのでバーベキューに行くことは事前に行っていた。バーベキューは1日楽しめたが、私は兵庫県と近かったので旅行に行った訳でもないのでこれと言ったお土産は用意しなかった。この職場では近場の旅行などでもみんなにお土産を用意するのが暗黙の了解になっていたようだ。次の日に仕事に行ってからどうだったか聞かれてから、どうやら直接は言わないがお土産は用意したほうが良さそうだった。これもまあ1回で分かるが、京都では特に難しい暗黙の了解が多い。

 

 これは一例であるが、京都にお客で行ったときに時間が経過したら「お茶をどうですか」とすすめられたときにそのままお茶をもらったら何を言われるか分からない。これを言われたときには「もうお引取りあそばせ」という意味なので、「それではこれでおいとまします」と言って帰るのが正しい対応になる。こんなことが多いので言葉が額面どおりにしかとらえられないアスペの当事者にはとても京都は住みにくい町になる(←そういいながらもう18年も住んでいる)。特に京都で生まれ育っていない私には京都では常識であることの理解はなかなか難しい。

 

 この職場は京都で生まれ育った人が多いのでそんな暗黙の了解が多く存在しました。それが分からない私は次第に「常識の分からない奴だ」と次第に陰口をたたかれるようになりました。最初は許されていたことでも次第に厳しい視線が感じられるようになります。

 

 

 話はまだまだ続きます。