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 上道平野「ちゃら・ぽん」!の時代が二度ある。明治のご一新と、昭和の敗戦!日本人は、外部からの圧力でガラガラ崩壊するのがお得意。こういう時は実に素直に新事態に適応する。

 長く続いた江戸時代の安穏と暗黒の時代から、まず、町村合併から変革が始まった。区画を大きくすると人員が掌握しやすいし地租改訂での税金もとりやすくなる。もっと一番の狙いは、徴兵制の施行で兵隊を集めやすくするためー―当時、兵役にとられると生き血を絞られて外国に売られるとかの噂が生々しくかわされていたのだ。官僚の考えることは・・・。

 明治8年。財田地区周辺では、当麻村と岩間村が合わさって米田村になり、財村と長原村で長岡村ができた。お隣では、苅田村と勅使村とで「兼基村」という何ともけったいな架空の村名が生れたりした。丁度その時、幡多・高島では小町村が雄々しい雄町村に変身したり、脇田村と中田村が合わさって「賞田村」が生れたりした。しかし、いずれも僅か14年後に再度の大変身を遂げることになる。

 「財田村」の誕生は、明治22年6/1(1890)のこと。乙多見・神下・米田・長利・下・四御神・土田・長岡―ー旧村で言えば10カ村、新村では八カ村の大合併である。当時、一村一社の整理が厳しく進められて各村々の祠の類はほとんど破棄された。江戸時代にも祠の整理は盛んにおこなわれてきたが、それでもまたいつの間にか八百万の有象無象は生まれてくる。何にしろご利益を得られれば良いのだから、イワシの頭も拝むことになる。ちなみに光政公が神社に難癖をつけたとかいう噂は信じちゃいけないよ!これは「淫祉邪教」と言って、みだりがましいもの(性器やけだもの、爬虫類など)や、よこしまな教え?などを取り締まろうというもので、主として日連系のお寺を廃寺にした。これは以前の支配者<松田氏>の力で「備前法華」と唱えられるほど法華系に占められていたから。

 財田村の誕生で、八か村の鎮として土田のお山の、秦氏が担いできた京の地主神「鴨氏の祖神」を引き下ろしてきた。もともと祀っていた天神様(菅原神)を合祀として、由緒ある「財ノ宮」の主神として押し付けた?言葉が過ぎるかどうか、現在の姿を見て考えたい。なんとなく「ステゴザウルス」のようにしか見えないのが非常に悲しいじゃない?。鳥居もなかった(鳥居は昭和52年住民の尽力で作られ、平成になってから鈴もつけられた)。もっとも、鳥居のないのが<古格>で、古いものほどよいとするなら、鳥居なんか作るんじゃぁなかった。ここでも〈無知との遭遇〉が恨めしい、のはじぶんだけでしょうか。渡来系の神を八紘一宇の精神で祀ることに、なんとなく違和感を感じるのも私一人だろうか。