平和ボケと言う言葉がある。
ボケというのは だいたい知能指数が低くなった状態だと思う。
いろんなことを思い出せないという状態が思い起こされる。
戦争の苦しみや 戦争が二度と起きないようにした決意。
そういったものを忘れた状態が 平和ボケということがわかる。
しかし、 戦争をする覚悟がないことが 平和ボケと思ってる人が多い。
さて、 憲法9条は 戦争を十分経験した世代に 受け入れられた。
いろんな人はいるだろうけど、 その時代を過ごしてきた人は、 この9条を
あえて 今の時代まで残して お亡くなりになっていった。
よく憲法9条で国を守れるか という話も耳にするようになった。
私は 明らかに憲法9条では国は守れないと思う。
それは 文をそのまま解釈して そのように行動すれば ノーガードということなので
守れるわけがない。
戦争は誰が始めたのか。 当然 国が 能動的にせよ受動的にせよ 始めたものだ。
そして 戦争で誰が得をしたか。 それは国民から金を巻き上げて戦争を始めた者たちだった。
国と言うのは 国家権力とも表現される。
国民は今現在でも コントロールを国家権力に対し行う時 選挙と言う方法を用いる。
選挙では 国家権力のうち ほぼ9割がた 立法権を行うモノの選挙となる。
国家権力は 三権分立で 立法 行政 司法 からなる。
単純に考えて、 相互にけん制し合うのだから 3等分と考えても、
3割程度しかコントロールができない。
しかし実際は、 国家権力のうち 明確に定義できうるものは、 立法と司法で
全体から この二つを抜いたものが 行政権であると 学説上定義されているようだ。
つまり 行政権は常に肥大に向かっているが、それ以前に ある程度 計り知れないほどの
大きな力を占めている。
なので 国民は 相当注意していないと 国家権力の暴走は 簡単に起こる。
また、 国民が損をするという現象は たいてい 国が得をしている。
このことからわかることは、 国民は 戦争相手国と戦うよりも 国と対決していなくてはならない。
そもそも、 戦争の苦しみから 国民が知ったことは、 国のために頑張っても無駄。
一番大事なのは 安心して眠ることができ、 たらふく食べることができること。
だからこその 憲法9条が 今まで 残ってきたことの表れだと思われる。
結局、 私たちは国を守る必要などはない。
すると、 国民の生活の安全のためには 国家、国を守るのは当然だと考える人もいるだろう。
しかし 繰り返しにもなるが、 国は実際に 国民を守らなかったし、 性質上 国民のためにあるものでもない。
私たち国民にとって 戦争を起こす国ならば、 消えてもらってもいい。
憲法9条は国家をしばるものだが、 それに反するということは 国は亡くなってもいいという内容なのだ。
そして国がなくなった後、 おそらく 新たなる為政者による国家が生まれるだろう。
それがたとえ侵略だとしても 私たちは それを受け入れることを 日本国憲法によって決意している。
そしてその為政者が 私たちの崇高な理想を踏みにじるのなら その国を 私たち国民の国として認めない。
国民が 為政者や国を認めない 方法論は ガンジーなどの先人の戦いや 市民革命といった参考になる歴史がある。
私たちは そちらの戦いに備えるよう 準備しなくては 先の大戦後の日本国民の崇高な理想を達成することができない。
そして 永久に 自由の中で 安らかな夜と 豊かな食事をえることはできない。