何かのニュースを見て、世間一般の常識や
仲間や、党派とかの主張とは
まったく別の見方をする人がいる。
そういう時、多くの人は、
「あぁ、自分とは違うな・・・」 「考え方、間違ってるよ・・・」 「わかってないなぁ」
となるかもしれない。
「なるほど、そういう意見もあるのか。参考にしよう」
と留保する人もいるかもしれない。
これが、あまりにひどいと、ものの見方のフィルターが、
毎回毎回ずれていると、
精神病の疑いや、異邦人として扱われる。
「あの人は、頭がおかしい」 「あの人は、外国の人ではないか」
(ここから★のとこまで蛇足です)
僕は、日本人というのは、遺伝的に大和民族やアイヌや琉球民でなくても、
日本語を話し、日本で仕事をし税金を日本国に納めているひとだと思う。
もちろん、仕事ができない人は、事情によっているんだけど、
仕事を探しているとか、そういうのも含めていいと思っている。
だから、外国人を排斥する、まったく仕事をして、日本社会を成り立たせようという
意思をまったく示さない、人たちを憎む。
かといって年金や保護というのは、井戸の呼び水みたいなもので、
絶対に、惜しむべきではないから、彼らのことは悪く思わないでほしい。
★
人とフィルターが違って、異なる発想、異なる行動をするという意味で、
世の中を変える力になると思う。
この考え方に対しても、世間一般的な捕らえ方だと、
「ある程度の範囲内で・・・」 「それが許されるのは優秀な人材だけ」
というものがある。
僕は、ほとんどの人たちは、
「自分が異邦人であること」 「他人が自分とは異なること」
この二つを恐れて、ほとんどの人が、ただ単にそれだけで、
同調圧力を作っている。
(ここから★まで蛇足です。)
庶民の同調圧力は、 支配する人たちにとって
とても都合がよいと、強く感じる。
★
この、自縛みたいなことで、日本人を定義してくと
必ず、朝鮮や中国に対しての、排斥というのをとめられない。
彼らに対しての批判的意見が、的を得たものであってもなくても、
排斥する勢いというのは、とまらない。
日本人は、敵を増やしながら、
行き詰ったときに抜け道を作ってくれる、違うフィルターをもった
日本の中の異邦人、個性をもつぶしていく。
90年代に、小林よしのり など個についての問題提起がなされて、
みんな、まんまと、はまっているよ。
墓穴を掘らないためには、
異なる意見を持っていたとしても、異なる行動をとったとしても、
日本人であるということを認める、定義をしたほうがいい。
そう思いませんか?