BC一世紀頃

● BC57(三国新羅)
     新羅の伝説上の建国年、当初は「斯蘆」(しろ)と称す。
     ※「新羅」を正式な国号としたのはAD503年。

● BC52(二中歴)
     「結縄刻木」にて暦・干支を把握(二中歴に記す倭国)。
考察

古田武彦氏は前52年のこの年を「九州王朝建国」と予測された。

漢の時代、倭国では100国程の小国家が乱立していた。その後50年の経過期間はあるものの、この時点では未だ劇的な変化は想定できない。したがって力を蓄え頭角を現した国があったとしても「王朝」と云うのは無理があろう。
 

● BC50 (三国新羅)
    紀元前50年 倭人達が兵を率いて辺境を侵そうとしたが、始祖に神徳があるということ を聞 

  いてすぐに帰った。

考察

周囲に100国近くもの敵対国を背負いつつ、九州から海を越えて半島に進行することは可能とも思えない。ここの倭兵は半島南端の倭人か、そうでなければ潤色記事であろう。

 

●  BC37 (三国史記)
     高句麗の伝説上の建国。
考察

『魏書』と『三国史記』は、高句麗は前37年に夫余の王族である朱蒙により建てられたという。しかし、漢四郡と衝突を繰り返していた高句麗の歴史を見ても、国の形はBC一世紀頃にはほぼ出来ていたように思われる。

 

●  BC18 (三国史記)
     百済の伝説上の建国。

考察

実際は前述の通りもっと遡る可能性もある。日本の学界では4世紀前半頃の成立説が大勢。
 

一世紀頃

● 2年 (三国・高句麗)➡ 史実は32年
     後漢の光武帝の下へ使者を送って朝貢した際、それまでの高句麗候から王へ冊封。

考察

光武帝の在位は25~57年である。高句麗は32年(建武8年)に後漢に朝貢し、前漢末(8年頃)以来の王号が復活しているので、当記事はこのことを指しているものと思う。したがって、ここの2年は誤りで32年が正しい。

 

●  3年 (三国・高句麗)➡ 史実は三世紀初頃
     第2代の瑠璃明王が隣国に在った夫余の兵を避けるため鴨緑江岸の丸都城(がんとじ

  ょう)の山城へ遷都した。

考察

高句麗の本拠地が実質的に丸都城へ移った時期は、2世紀末から3世紀初めと見られている。丸都城は高句麗王伯固の死後、その息子延優(在位197~227年)によって築かれている。築城・遷都の年代はやはり三世紀初頃であろう。

 

●  9年 百済は 馬韓を”滅ぼして”その全領土を併合 

考察

半島の三国時代の始まりか? 

馬韓を”滅ぼしては、“馬韓を統一して”が正しい表現である。

 

●  12年 (後漢書)
     中国「新」王朝の皇帝、王莽(おうもう)が高句麗王騶(すう)を殺し、高句麗を下句麗とする。

考察

王莽の在位は8年~23年。「後漢書高句麗伝」では、王莽が臣下に命じて、高句麗候の騶を殺害したのは、AD12年である。しかし「騶」は初代高句麗王の「朱蒙」ではないかとの説もある。この場合「高句麗本紀」は、「朱蒙」の死をBC19年としている。

ここは第三者の目を信じて、「後漢書高句麗伝」の記録を是とし、「騶」は「朱蒙」の子、第二代の「瑠璃明王」のことと理解する。

 

●  14年 (三国新羅)
     倭人が兵船百余隻で海辺に侵入。

考察

「漢書東夷伝」にある、下記西暦57年の倭国王金印拝受記事から、この年代の「倭国」の発展は疑いなく、当記事にあるような侵入行為を否定はできないが、BC20年の”瓠公”或いはAD57年の”脱解王”渡来伝承には、倭人への嫌悪感は感じられず、当記事の信憑性は疑わしい。

 

● 27年
     高句麗北沃沮を滅ぼす。

● 32年 (後漢書)
     高句麗から朝貢の遣使がきたので、光武帝はその王号を復させた。
     ※2年の項参照

● 57年 (三国新羅)
     4代王「脱解尼師今(一云吐解)立。時年六十二。姓昔。妃阿孝夫人。脱解本多婆那國 所

  生。其國在倭國東北一千里」
     (脱解は多婆那国で生まれ、その国は倭国東北一千里にあり)

考察

古代王の出身地を書き留めたAD57の記事は、一般的な伝承や神話の類と違って、かなり具体的である。検証こそ出来ないものの、場所の特定は不可能ではない。脱解の生誕地「多婆那国」は、倭国の東北一千里である。倭国の東北とあれば、そこは倭王の居る都から見た東北、地図を辿ると概ね出雲市から鳥取市辺りとなる。

出雲の国引き神話には、「志羅紀(しらぎ)の三埼(みさき)を引き寄せた」と云う話もあり、何か関連がありそうで興味深い。

もしも全てが創作であれば、「三国史記」の完成時期(1145年)から鑑みて、長きに亘り敵対して来た「倭人」の登場する話とはならない筈である。

 

今一つ想定されることがある。
この伝承をもたらした時代、この地域には祖を倭人とする人々が、或いは倭人そのものが、辰韓の人々に交じって多く居住していたのではないか、と云うことだ。

それこそが、伝承を永続させた最大の理由かも知れない。

 

ところで、天族(あまぞく・海人)に関して、どうしても述べておきたいことがある。

彼らは天孫族とも呼ばれる倭国王の祖であるが、その故郷は壱岐・対馬の海域とされる。根拠となるのは、当然の如く「記紀神話」である。

今私は、この話に大きな疑問を感じている。もしも徐福集団を始原とする彼らであったら、これらの小海域にあって、倭国を手に入れる程の力を蓄えることが出来ただろうか、今も昔も、世の中それ程甘い筈はあるまい。

しかし、彼らの熟成を促したのが韓半島弁辰の地域、或いは南端辺りの地域であったとしたらどうだろう。違和感は殆ど無い。

 

700年以降に編纂された記紀は、日本の権威と皇統を前面に強く押し出したものだ。したがって、天族の出自を半島南端に比定すること等、到底出来る話ではなかった。

例えそこが、古来からの倭地であったとしてもである。恐らく壱岐や対馬の海域迄が、出自として譲れる限界だったと思われる。確かに壱岐・対馬には、位の高い神社が異常に多い。しかしそこには、高い文化と共にあった彼らの先進的な生活の痕跡は殆ど見当たらないのである。この点に目を瞑れば真実の歴史は見えて来ない。