今私は72歳と4か月。世間を見ると、同世代で生の終わりを迎える人は決して少なくはない。予期できていたのか否かは別として、100歳以上が今年(2020年度)の敬老の日には8万人を超えるという、こんな時代にあっても結構早世する人はいるのである。

勿論思いもよらぬ病や事故で、もっと若年で死を迎える人もいる。まさに命運尽きるのは「神のみぞ知る」、人間の左右できるものである筈はない。

 

私は11歳(小学五年生)の頃、死の恐怖に囚われたことがあった。きっかけが何だったのかは忘れてしまったが、その時の心理状態は今でも鮮明に覚えている。

この広大な宇宙の中で、自分という意識する小さな命が忽然と消滅し無と化してしまう。この周囲の環境も、親しい友人知人も、そして愛する両親や兄弟も、その全てを知覚することができなくなる。その無への恐怖は尋常なものではなかった。

母に問うた。「お母さんは死ぬことは怖くないの?」。母の答えは簡潔であった、「誰も死ぬんだからね」。

私の顔を見つめながら微笑んでいた。その短すぎる返答に、私はむしろ何かしらの安堵感を覚えたように思う。

その当時、一世を風靡していた流行歌で「上を向いて歩こう」があった。今でも知る人は多い「坂本九」の持ち歌である。
私が母の言葉を反芻していた時この歌が耳に届く。
「こんな有名な坂本九の命でもいずれ無く(亡く)なってしまうのだ・・・」
未熟な子供であったが故か、この単純ともいえる思いが深刻な恐怖の解消要因となった。
「坂本九」については、その後航空機事故の犠牲となり、多くの人々に大きなショックと悲しみを与えたこと、ご承知の通りだ。私にとっても忘れられない出来事となったのである。

 

さて、私にあとどれ程の生が与えられているのか・・・。知る術等ある筈もないが、知りえないことを思い煩うことは無駄なことだと言われそうな気もする。
命の尽きる形や時は様々である。であれば、自らの信じる生を最後の時まで醸成し続けること、それ以外に出来ること等ないのかも知れない。

可能なことは、安らかに生を閉じることのできるような心の準備をすることだけか。

 

私は宗教家ではないが、宇宙を創造し動かしている精妙で絶対的な存在者を感じることができる。全てはただ一つの意思から派生しているのだ。死はその根源に戻るだけではないか・・・。

言い替えると、派生しているものは人間にとっての「魂」、根源とは絶対的存在者の意識、魂の故郷であるその中に帰って行く、そういうことのように思うのである。

 

97歳で亡くなった母の臨終に際し、ベッド脇に膝まづいて、両の手で母の手をそっと包む。そこには実に安らかな顔があった。

少しづつ細くなる息。その内急に幾度かの大きな呼吸、そして静かに息絶えていった。

「誰も死ぬんだからね」と言って微笑んでいた母、言葉通りの見事な最期であった、まるで死後の世界が眼前に展開しているかのように。

死に際しての心の準備とはどのようなものか、母が身をもって授けてくれた最後の教訓であったかも知れない。

 

11歳の頃から61年の時の流れを経て、「死は恐怖するものではない」、このことを自らの死生観として、ゆるぎない哲学として、この先の生を全うしたいと思う。