『晋書東夷伝』に見る我が国 

AD265~AD420年代の倭国  編纂者は房玄齢 (ボウ・ゲンレイ=578~648年。唐の貞観時代の政治家)
晋の時代 、泰始元年(265年)から、宋が建国する420年までの記。
 


●倭人は帯方の東南、大海の中にあり、山島に国を作っている。土地は山林が多く、良田はない。海産物を食べている。昔は百余の小国がたがいに接していた。魏の時(220~265年)に至って、三十の国があり、(魏と)親しく交流した。
考察
倭国は山島故、山林に覆われているだろう。従って良田はない。これは恐らく、著者「房玄齢」の思い込みであり想像である。勿論広大な大陸とは比較になるものではないが、当時の倭国の人口密度からして、良田なしとの断言はできない。


●(倭都・邪馬壹国の)戸数は七万あり、男子は大人、子供にかかわらず、みな、顔と体に入れ墨している。自ら太伯の後裔という。また、昔,使者が中国を訪れた時、みな、大夫を自称したともいう。
昔、夏の少康の子は会稽に封じられると、髪を切り、入れ墨して蛟龍の害を避けたが、今、倭人は沈没して魚を取るのを好み、少康の子と同様、入れ墨して水鳥を追い払う。

考察
「自ら太伯の後裔という」、これは著者「房玄齢」の作為か勝手な推量であろう。調べた限りでは、「晋書東夷伝」以前に「自ら太伯の後裔」を名乗ったと記述された確実な史書は見当たらず、入れ墨と海に潜っての漁が、少康の子(無余)や太伯と同様の連想を生んだものと思われる。
「晋書」以前の国史では、少康の子との類似性のみが記されたのであり、自ら太伯の後裔を名乗ったような「倭人」の形跡はない。紀元前1000年の昔日の幻影を、この時代名乗り出る筈は無いだろうし、またそんな価値等見い出すことは不可能だ。


●その道のりを計算すると、まさに会稽、東冶の東にあたる。
分析
ここも前国史の単純な引き写しである。    
「その道のりを計算すると、まさに会稽、東冶の東(?)にあたる」
とは、「邪馬壹国」の位置との辻褄がまるで合わない。
中国に於いては、「東冶県」は会稽の南、現在の福州市辺りとされ、その東にあるのは「台湾」なのである。


●その地は温暖で、稲やカラムシを植え、養蚕して布を織る。土地に牛、馬はいない。刀、楯、弓矢があり、鉄をヤジリにしている。
考察
「魏志倭人伝」に出て来る矢じりの材質は、「鉄」や「骨」となっていたが、当「晋書」では「鉄」単独である。
三世紀の初め頃「卑弥呼」の時代には、既に鉄の生産は始まっていたことが分かるが、骨の矢じりとの共存を考えると、普及度合いはまだまだの感があった。しかし四世紀ともなると、鉄は生産・加工技術の進歩と共に、急速にその存在価値を高めたものと思われる。


●家屋があり、父母と兄弟は異なる場所で寝る。食飲にはまな板状の台と高坏を用いる。嫁取りの時、銭や布は持たず、衣服を用意してこれを迎える。
考察
飲食時の手づかみ表記が、この時代にはなくなっている。
嫁取りの時に衣服を用意してこれを迎える、は初出。


●死に際し、棺(ひつぎ)はあるが槨(棺を納める所)はなく、土を盛って冢(つか)を作る。初め、喪中は哭泣して肉を食べない。葬儀が終わると、家中の者が水に入り、体を洗って清潔にして縁起の悪さを取り除く。
考察

棺を納めるような部屋(槨)が無いとは、棺を直接土中に埋葬すると云うことだろう。喪中には肉を絶ったり、葬儀後に水で身を清める風習については、「魏書」の考察にて洗練された宗教観と記したが、春秋戦国時代の孔子による「儒教」が、朝鮮経由でもたらされた影響があるのかも知れない。宗教的な匂いが強く感じられる。


●正月や四季の区別を知らず、ただ秋の収穫の時を数えて年紀としている。
考察
空白の四世紀時代には、未だ暦を持たず、暮れや新年はもとより、春夏秋冬の区別を知らなかった。秋の収穫を迎えて、初めて一年の。終わりとしている。
この記事には文明人の偏見がある。自然と共に暮らす人々には、季節の移り変わりは何よりも重要だ。特に我が国の様に、明確な四季が巡る国土では、農耕に直接影響を与える季節への知識は欠かせない。


暦のような先進的手段は無かったとしても、恐らく、より実用的な他の手立てを持っていたことは疑えない。収穫の為には、種を蒔かねばならない。水や風や日照りへの対策も講じねばならない。それは又、農耕だけでなく、狩猟や漁労にも同様のことが言えよう。
これ等のことが頭にあれば、倭人が暦を有する人々に、決して引けを取るような生活をしていたのではないことが分かる筈だ。


●住民は長生きで、百歳とか八、九十歳の者が多い。婦女は淫らではなく、嫉妬もしない。争いや訴えはない。
考察

住民の長命記事は魏志にも見られる。当初は誇張だろうと思っていた。しかし前段で邪馬壹国の女王卑弥呼の享年を、幾つかの記録をもとに調べてみると、最低で見積もっても95歳となってしまった。記録の真偽に問題があるのかも知れないが、古代人は短命と云う常識を、疑ってみる選択肢もあるように思える。

古田武彦氏は”二倍年暦”という実証論を提唱された。中国の周代を記す史書や、仏典を始めとする古の聖典の中には、100歳120歳と云った表現が随所に見られると言う。
現代人類の寿命も、時に120歳を超えるケースもある。これは、生存の為の最適条件を備えた場合、人間が到達し得る一つの限界を示すものだが、これとて未だ最終的限界とは断言できていない。又、インドや中国には聖人・仙人伝説が存在し、彼らは100歳を超える者も多いと言う。
加工食品等一切なく、鍛え上げた肉体にて、自然と共にストレスなく生きていた超人達が、40年50年の人生しか生き得なかったとは思えない。現代人は、薬がなければ、医療が無ければ、生命は維持できないのだ、という固定観念に囚われ過ぎているように感じる。
二倍年暦の論を否定すると云うことではないが、古代人の生存年齢50歳の限界説には賛同し兼ねるし、この考えで全てを仕切ってしまうことには無理があろう。

                                次回に続く