〈梁書東夷伝〉

梁書東夷伝は、主に我が国(倭)の西暦502~557年頃を記す。著者は陳の姚察、その息子の姚思廉により629年に成立。

 

倭は、自ら太伯の後裔だという。その風俗では皆、体に入れ墨する。帯方郡を去ること万二千余里、おおよそ会稽郡の東に在るが、とてつもなく遠く離れている】

 

晋書・梁書の東夷伝は、それぞれ西暦600年前半に編纂されているが、それまでの史書には「倭は、自ら太伯の後裔という」という表記はない。これをどう見るかは重要だ。

私の素直な感想は、4世紀直前までは倭が太伯の後裔だと云った情報は存在しなかった・・・そのように思われる。7世紀になって突然表れている。

これが真実であれば、梁書成立に近い時代に、自ら太伯の後裔を名乗った倭人があったことになる。絶対に無かったとは断言できないが、認めることも容易ではない。

 

600年前後と言えば、九州王朝全盛時、誇り高き倭王「阿毎多利思比孤」の時代である。この時代の人が自らを太伯の後裔等というだろうか・・・。

極めて疑問ではあるが、だからと云って、そのような史実の可能性までを否定するものではない。むしろ江南の呉と呼ばれる地域の人々が、稲穂を携えて九州北部に渡来した可能性は高く、現代の科学的手法によっても、縷々指摘されているところである。

 

ではこの場合、時代的にはいつ頃の渡来となるだろうか。

「呉の太白」についてWikipediaを見ると

 

司馬遷の『史記』「呉太伯世家」によると、周の古公亶父(ここうたんぽ)の末子・季歴は英明と評判が高く、後を継がせると周は隆盛すると予言された。

長子・太伯(泰伯)と次子・虞仲(仲雍)は、末弟季歴に後継を譲り、呉の地に流れ現地の首長となる。後に季歴は兄の太伯・虞仲らを呼び戻そうとしたが、太伯と虞仲は全身に刺青を施しそれを拒んだ。

当時刺青は蛮族の証であり、文明地帯に戻るつもりがない意思を示した。太伯と虞仲は国を立て、国号を句呉と称した。その後、太伯が亡くなり虞仲が後を継いだ。(後に虞仲の子孫寿夢が呉と改称)

 

太白は紀元前1100年前後の人なので、呉の地に流れ着いたのもその時代と考えてよい。呉の建国は虞仲の子孫「寿夢」によって、紀元前585年に為された。したがって、倭人が「太白の裔」というからには、太白の生きた時代から大きく離れた時代とは思えない。許される範囲は紀元前1100~900年の概ね200年間位ではないだろうか。

 

今、弥生の稲の伝来は、北部九州の唐津「菜畑水稲耕作跡遺跡」、板付水田跡遺跡によって、縄文晩期から弥生初めであったことが分かっている。

放射性炭素年代測定法(AMS)の科学的手法導入により。これら稲の伝来も紀元前700~900年程に遡る可能性も指摘されており、まんざら無視しえない状況ではあるが、この場合、北九州に渡来した人々が、この国に稲作以外の何をもたらし、そして何を為したのか、全く見えて来ない。 又縄文の権力者出雲王朝との関係も推測できるものがない。

稲作をもたらした江南人の渡来は、その痕跡が水田跡以外に見当たらないのである。

 

もっとも、この時代の我が国の状況記録はどこにも存在せず、歴史欠落の時代と言える。一方で当時の大陸に目を転じると、時代は戦乱渦巻く春秋戦国の世、阿鼻叫喚の修羅世界であった。必然的に我が国に関わる余裕などある筈はない。如何に歴史を重んじる中国ではあっても、正確な史書編纂は不可能であったし、畢竟我が国が、興味の対象となることもなかったのだ。それ故記録は残されていないのである。

 

この時代は半島に於いても歴史の空白期間となった。永きに亘る箕子・衛氏支配の史実が在りながら、その詳細な記録は残されておらず、実態不明の為、未だ朝鮮民族の認めるところとはなっていない。

極東地域の、この歴史空白期には、難民・流民の多かったであろうこと、容易に想像できる。

戦、特に国と国との戦いは、単に戦士だけの生死の問題ではない。戦闘の為には、武器や食料や衣服を調達し、貴重な一家の担い手を徴兵する。強大な権力と人民の犠牲のもとに蓄えた富は、権力者の欲望の具となり、瞬く間に潰えてしまう。

文化の粋を集めて建設された都市も、農民の血と汗によって耕され維持されて来た田畑も、悉く焼き尽くされ、蹂躙され、破壊される。

 

いつの世も、戦を厭い平和な暮らしを願う人々が、塗炭の苦しみに苛まれるのである。

この様な中、打ち続く戦乱の地を逃れ平穏な暮らしのできる地を求めることは、現代を見ても充分に理解できることである。

 

これら難民の流入(渡来)に伴ない、多少衝突のあったことも否めないが、恐らくその記録を残せる程の余裕を、時代が有してはいなかったと考える。

他民族の侵略に苦しむ立地にはない我が国には、渡来人に対するアレルギーも少なく、逆に積極的な受け入れとなった可能性もあろう。

                                                                                              【つづく】