「白村江戦」後の進駐はあったのか 

「旧唐書」にも「資治通鑑」にも、我が国の占領や進駐記事は一切ない。 当然だと思う。

白村江戦直後の唐軍には、その様な手間暇かけて、我が国に関わっている余裕等ありはしなかったのだ。

 

唐にとって、663年から668年迄の戦いの主眼は、宿敵「高句麗」の討伐であり、そして目的達成直後からは、その矛先は造反者「新羅」へ向けられていた。

しかも 仇敵を排除し、半島の盟主となった「新羅」の士気は侮りがたく、 さすがの大唐も、戦況不利の状況に陥っていたのだ。

 

進駐はでき得なかった。 故に中国史書のどこにも、その痕跡は残されてはいないのである。

 

白村江戦以降の半島情勢と、書紀に見られる唐軍来航の記録を以下に併記する。

 

663年9月    於:「資治通鑑(1084年完成)」

      「劉仁軌は兵を率いて百済を鎮守し、孫仁師、劉仁願は還るよう詔が降りた。

664年5月    於:「日本書紀」

      郭務悰来日(664年12月帰国)

664年10月   於:「資治通鑑」

      検校熊津都督劉仁軌が上言。

     「臣が伏して見ますに、現地の守備兵は疲弊したり負傷した者が多く、 勇健な兵は少く、

   衣服は貧しくくたびれ、ただ帰国することばかり考えており戦意がありません

     「家を出発する時に、ただ一年分の装備のみを支給されたのです云々」

     「陛下が兵を海外に留めているのは、高麗を滅ぼすためです。百済と高麗は昔からの同

      盟国で、倭人も遠方とはいえ共に影響し合っています。もしも守備兵を配置しなければ、

   ここは元の敵国に戻ってしまいます云々」

 

    「国家が海外へ派兵したのは、高麗経略の為だが、これは簡単には行かない。今、収穫

   が終わっていないのに、軍吏と士卒が一度に交代し、軍将も去る。 夷人は服従したば

   かりだし、人々の心は安んじていない。必ず変事が起こる。 しばらくは旧兵を留め、収

   穫が終わり資財を揃えてから兵を返すべきだろう。 軍をしばらく留めて鎮撫するべき

   だ。まだ帰れない」   

     この年に倭国進駐の余裕は感じられない。

 

665年8月   於:「資治通鑑」

     8月熊津城で同盟する。 新羅、百済、耽羅、倭国の使者が海路で西へ還った。                  使者とは「封禅の儀」への参列使者と思われる。

      「封禅の儀」は、平穏な世の到来を天地に感謝する儀式であり、これへの使者招聘時期

       に、下記9月の倭国への進駐軍来航は考えられない。

 

665年9月  於:「日本書紀」

     劉徳高・百済禰軍等来日(254)人(665年12月14日帰国)

666年1月   於:「資治通鑑」

     「封禅の儀」

667年9月   於:「日本書紀」

     百済の劉仁願が部下の上柱国の司馬法聡を筑紫都督府に送る。(667年11月13日

     帰国)

 

668年8月   於:「資治通鑑」

     月卑列道行軍総管、右威衛将軍劉仁願が高麗征伐時に逗留していて進軍しなかったとし

     て罪に問われ、姚州へ流された。

     この年の9月に高句麗は陥落し滅亡した。

 

669年12月   於:「日本書紀」

      唐は郭務悰など2000人余を日本へ派遣。

    ※これを進駐軍ととれば、戦後6年後の進駐となり不可解である。

 

671年11月   於:「日本書紀」

     唐国使者の郭務悰(カクムソウ)達600人、送迎の使者の沙宅孫登など1400人、合わ

   せて2000人が船74隻にて来日(朝鮮の比智嶋に来て、来日しようとしているが、通告

    していないと驚いて襲うだろうと考え、あらかじめ朝廷に使者を派遣しようとしている、と

   情報が来る)。 沙門の道久・筑紫君薩野馬・韓嶋勝娑婆・布師首磐(ヌシノオビトイワ)

   の4人が唐より帰国(672年5月帰国)

 

まず前提として言えることは、「書紀」のこれらの記事を証するものは、他に何もないということ。 真実か否かはともかくとして、このことは常に認識しておかねばならない。

【つづく】