どーも。実家で暇すぎてブログ書こうかな?と思って久しぶりにアメブロを開いたら、アメトピとやらに選ばれていて、沢山の方に読んでもらえてとても嬉しくて、浮かれぽんちきのアホ大学生です。


前回上げた「総括2023年の振り返り」という記事が初めてアメトピに選ばれ、沢山の方に読んで頂き、沢山のいいねを頂きました。読んでくださった皆さん、本当にありがとうございます!これからも皆さんに読んで頂けるような記事を書いていこうと思います!


さて。今回は何かと言いますと、前回の記事の続き…?を書こうと思います。

前回の記事で「僕が急性薬物中毒で救急搬送され、救急病院で双極性障害の極期になり、幻覚や妄想に苦しんだ」ということを書きました。そしてそれがアメトピに選ばれました。

そこで今回は僕が入院した経緯や入院生活中に何を思ったかをより詳しくお話しようと思います。

楽しい話ではありませんが、是非読んでやって頂けると嬉しいです!


事の始まりは…いつでしょうか…?

恐らく夏休み中…?だと思います。

僕は元カノに振られたことが原因で傷つき、毎日死にものぐるいで働いていました。どのくらい働いていたかというと、前回の記事にも書きましたが、13時から始まる1番早いコマから21時までの当たった最後のコマまでの8時間を週6で働いていました。

何故そんな馬鹿なことをしたかと言うと、僕は嫌なことがあると別の苦しみに逃れようとするからです。そうすることで元カノに振られたということを考えずに済むからです。働けば当然、給料が発生しますから、僕にとっては一石二鳥だと考えたからです。

今冷静になってみるとそれが如何に馬鹿なことかよく分かります。しかしその時の僕はそれ以外に苦しみから逃れるいい方法が思いつきませんでした。

当然それだけ働けば身体が持ちません。しかし動けてしまいました。その時の僕は軽い躁状態、所謂、軽躁状態だったのだと思います。

なんとか夏休みを乗り越え、夏休み明けの大学の授業が再開しました。この頃のことはよく覚えていません。恐らく多少辛くても動けてしまう軽躁状態が終わり、また何をどうしても動けないうつ状態に戻ったのだと思います。大学の授業には何とか出ていましたが、何かとしんどくて内容は全然頭に入っていませんでした。

夏休み明けの授業が2週間ほどあり、春季の単位がかかったテスト週間がやって来ました。僕の単位は殆どの授業がレポートだったのでテスト週間最終日の授業のテストだけでした。その期間は塾講師のバイトも休みを取って、家で勉強…したかったのですが、うつがしんどくて殆どを寝て過ごしました。

そして迎えたテスト当日。前日になんとか身体を起こして一夜漬けで身につけた突貫工事で乗り越えました。高校の頃から少しだけ心理学を独学で勉強していたこともあり、解答用紙を一応全て埋めることができました。

テストが終わり、短い秋休みがやって来ました。秋休みの期間は、昼頃起きて、塾で働いて、帰ってきて夕飯作って、シャワーを浴びて、寝る。という何とも淡白な生活をしていました。時々、余程酷い顔をしていたのか、心配してくれた友達とカラオケに行って歌ったりしていました。

淡白な生活の中にも華はありました。元カノに振られてから同じクラスの女の子に少しだけ好意を寄せられていました。僕もその子のことが、好きまではいきませんが、気になっていたので仲良くなれてとても嬉しかったです。その子に何回かデート…?に誘われてお祭りに行ったりラーメンを食べに行ったりしました。

そして短い秋休みが終わり秋季がやって来ました。秋休みにいくら休んだとは言え、メンタル面での回復はあまりしていませんでした。

そして僕は何を血迷ったのでしょう。周りにそそのかされたということもありますが、まだ関係が危ういその子に告白をしました。

結果は無事に玉砕。

その日、僕は本当に再起不能となりました。

メンタル面でも身体の面でも疲れきってしまいました。

そこで僕は「死んでしまおう」と思い、家にあった残りのラツーダ、オランザピン、サイレース(恐らく2週間分くらい…?だった気がします)を一気に飲みました。そこで僕の記憶は途切れています。



そして気付くと救急病院で点滴に繋がれていました。気がつくと10月7日でした。僕が薬を飲んだのは10月3日だったので4日間程、意識不明の重体になっていたことになります。

僕は一人暮らしをしています。意識不明の中、どうやって病院まで来たかと言うと、音信不通になっていることに気づいた友達が僕の家までわざわざ来てくれて、大家さんに言って鍵を開けてもらい、救急車を呼んでくれたとのことでした。

もし友達が来てくれなければ今、僕は死んでいたかもしれません。来てくれた友達には頭が上がりません。

それから僕の入院生活が始まりました。

僕は倒れている時に吐瀉物が肺に詰まってしまい、逆流性肺炎になっていました。そして長いこと同じ姿勢で倒れていたため褥瘡(所謂、床擦れ)を起こしていました。

まずは逆流性肺炎の治療と身体の中の薬物を取り除く治療から始まりました。

逆流性肺炎の治療のために粒の大きな抗生物質を服用して肺炎を治療していきました。しかしすぐには良くはならず、微熱と咳が続きました。

点滴は僕の意識が戻って3日程で終わりました。(なんの点滴だったのかはよく覚えていません。ごめんなさい)

身体の中から薬を抜くために今まで飲んでいた双極性障害の薬(ラツーダ、オランザピン)と不眠症(サイレース)の睡眠薬は一旦ストップになりました。


持ち前の若さもあり、病状はみるみる良くなっていきました。「このままいけば2週間で退院できるだろう」というのが先生や看護師さんの中で囁かれていました。

しかし、僕の中で「あれ?なんかおかしい…?」と思うことが出てきました。

それは「なんか自分とは違うもう1人の自分が入り込んでる…?のか…?」ということでした。

看護師さんを見ると「なにか変なことをされるのでは…?」と思ったり、隣の病室にカーテンがされると「怪しい裏社会の集会が行われているんだ」と冗談みたいなことを本気で思って信じていました。

そして極めつけは「入院しているここは病院ではなく裏社会の実験施設なんだ」と本気に思って、ベッドを抜け出し、病院から脱走しようとしました。

その後、看護師さんに捕らえられ、ベッドに拘束されて、精神科の閉鎖病棟送りになりました。

今思えばそんなことは一切なく、先生や看護師さん達は1日も早い日常生活の復帰を願って治療に尽力されていたと分かります。しかし、当時の僕は本気でそう思っていました。びっくりですよね。

これは後で先生に聞いた話ですが、僕はこの妄想・幻覚が出た時に、統合失調症では…?と疑いました。統合失調症はご存知の方も居らっしゃると思いますが、妄想・幻覚が陽性症状として出る精神疾患です。(詳しくはググってみてください)

しかし僕は統合失調症の診断はおりませんでした。何故か先生に聞いてみると「双極性障害の躁状態やうつ状態の極期と呼ばれるときには統合失調症のような妄想・幻覚があれ出ることがある。詳しく調べてみないと分からないけど、君の場合は今は妄想・幻覚の症状が落ち着いてるから統合失調症ではないと思うよ。」とのことでした。


閉鎖病棟に送られた僕はベッドに拘束されたままでした。閉鎖病棟に送られた後も妄想・幻覚が酷く、何故か自分がマツコ会議に出席していたり、全然ディズニーと関係の無い読んだことのある本を指さして看護師さんに「これディズニーの話なんですよ」と1人で勝手に爆笑しながら話していました。今思えばそれら全てのことは妄想・幻覚であると分かりますが、当時の僕は本気で妄想・幻覚の世界の中にいました。

この妄想・幻覚は閉鎖病棟に送られてからも3日程続きました。

僕は2週間で済むはずの入院生活がこの妄想・幻覚のせいで長くなってしまいました。


妄想・幻覚が無くなってしばらくして僕はベッドに拘束されることは無くなりました。

閉鎖病棟でどんな生活を送っていたかと言うと、朝7時に看護師さんが血圧と体温を測りに病室にやって来て起床します。ちなみに僕は妄想・幻覚の症状があったので一人部屋でした。

そしてその1時間後くらいに朝食を食べます。机と椅子がありましたが、僕は行儀が悪いですがベッドに座って食事を取っていました。

食事が終わる頃に主治医の先生が病室に来て、体調の問診がありました。

それから眠ければひと眠りして、気付くと10時半くらいでした。それからシャワーを浴びて、昼食前にもう一度血圧と体温を測りに看護師さんが来て看護師と少しお話して昼食を食べます。それから本を読めたら読んで、リハビリテーションの先生と筋力を戻す筋トレをします。終わったらまた少しボケっとして、夕食を食べて本を読んで寝る。という生活をしていました。もちろん閉鎖病棟なのでスマホは持ち込めません。暇つぶしと言えば本を読むくらいしかありませんでした。一応共同スペースにテレビがあったので観ようと思えば観れたのですが、訳もなく発狂しているおばあちゃんが少し怖かったので自室で本を読んでゴロゴロしていました。

そんな救急病院での入院生活を3週間程過ごしました。


3週間が経ち、僕は救急病院から精神科病院へ転院することとなりました。

どうやって行くのかな?と思って看護師さんに聞いてみると救急車でした。僕は救急病院まで救急車に乗ったのですが、意識不明だったので覚えていません。「何も救急車じゃなくても…」とは思いましたが、誰に言っても何も変わらなさそうだったので渋々受け入れました。

そして迎えた転院当日。昼食を食べて転院の準備をしました。「さすがにストレッチャーではないだろう…」と思っていたのですが、そのまさかでした。ストレッチャーでした…。

びっくりしましたが看護師さんが「VIPみたいでいいじゃない〜」なんて言っていました。

ストレッチャーに固定され、救急車に載せられました。「さすがにサイレンは鳴らさないよね…?」と思ったのですが、鳴らして市内を激走し始めました。ここまでくるともはや面白くなってきます。しかし救急車に載ってしばらくして思いました。救急車って乗り心地悪いと…。そりゃあまり乗りたくない車ですから乗り心地に期待していたわけではありませんが救急車は揺れる揺れる…。

少し気持ち悪くなりながら30分ほど救急車に載って転院先の病院に到着しました。


そして転院先の病院でまず最初にやったことは問診です。僕はあまり自分の過去などをあまり話したくないのですが、そんなことも言ってられないので自分の過去も先生に洗いざらい話しました。

それから先生に言われたのは「双極性障害だけではなくて発達障害の気があるかもね。」とのことでした。産まれてこの方発達障害と言われたこと無かったのでびっくりしましたが、先生が言うんだからそうなのかな…?とも思いました。

しかしこれも後で先生に聞いた話ですが、僕は発達障害ではありませんでした。「普通に話せるし、笑うところでしっかり笑えているから心理検査しなくても大丈夫。してもいいけど多分違うしお金かかるけどいい?」と聞かれて「やりません」と即答しました。

精神科病院に転院して双極性障害の薬を再開しました。オランザピンとラツーダは今まで飲んでいた量の半量を。睡眠薬はサイレースではなくデエビゴに変わりました。

僕は一人部屋でした…というより一人部屋しかない病棟でした。一人部屋ですが、本当に質素な部屋でベッドと椅子とキャビネットしかない小さな部屋でした。

救急病院ではパジャマなどの服は全て借りていたので、特に制限などなかったのですが、この精神科病院では親に服や下着を持ってきてもらっていました。なので紐が付いたズボンや靴は持ってきてもらっても先生の許可がないと身につけることができませんでした。この頃の僕は妄想・幻覚の症状はなく、かなり元気だったので「そんな事しなくても大丈夫なのになぁ…」と思っていました。しかし、そうは言っても僕は1度自殺未遂をした身なので、徹底的に生かすための治療がされていました。

この精神科病院も閉鎖病棟だったので、外界との通信は一切遮断されていました。

先生からの許可があれば病棟の外に出られる散歩の時間にスマホを使えたのですが、僕は親が持ってきてくれなかった…というよりすぐに持ってきてもらえるような距離に住んでいなかったのと、12月になるまで散歩が許可されていなかったので、10月の入院から12月30日の退院まで一切スマホで誰か友達に連絡を取ったり、YouTubeやTikTokを観て時間を潰したりすることができませんでした。

一応病棟に公衆電話があったので、親とどうしても連絡を取りたい時は、それを使っていました。

この病棟での生活は6時半に起床します…とは言っても僕は7時半の朝食まで寝ていました。朝食を食べて少しボケ〜っとして褥瘡の処置のためにシャワーを浴びて、褥瘡の処置をして、昼食を食べて、理学療法(OT)に参加して、おやつを食べて、散歩に行って、夕食を食べて、夜のテレビを観て薬を飲んで寝るという生活をしていました。

時々問診があったり、洗濯物を洗濯したりしましたがほぼ毎日平坦でつまらない毎日でした。

11月中旬頃には先生から退院しても問題ないというお言葉を頂いていたのですが、それには但し書きがありました。それは「褥瘡が治ったらね」ということでした。

救急病院にいた時から褥瘡の処置はしてもらっていたのですが傷が深く、なかなか治る気配が見えていませんでした。

ちなみに褥瘡は今も治っていません。ですが退院出来ています。なぜかと言うと褥瘡の処置を自分でできるようになったからです。自分で処置できるなら退院しても大丈夫だろうということで退院することができました。

双極性障害の方は軽うつ状態でキープできていて、今も躁状態になったりすることなく、病状は薬のおかげもあってかなり安定しています。



そんなこんなで急性薬物中毒から始まった3ヶ月にも及ぶ僕の長い入院生活は12月30日に終えることができました。

今は実家でゆっくりと生活しています。2月からまた一人暮らしに戻り、4月からまた大学生として再スタートを切る予定です。

先の記事で「何故一人暮らしなのか」というコメントを頂きました。

簡潔に申し上げますと僕の実家は安心して生活できる環境ではないからです。ちゃんとした診断がおりている訳では無いので詳しいことは分かりませんが、僕の実家はカサンドラ症候群であると考えられるからです。

父がアスペルガー症候群であると思われるので、母や妹と実家にいる時からかなり苦しめられていました。過去には父は幼い僕に容赦なく手を上げて、アザだらけになって小学校を休んだこともあります。なのでようやく1人で自由に暮らせるようになったことで僕の心にようやく平和…?が訪れたところなのです。そうは言っても僕は双極性障害を抱えているので、一人暮らしをするのは危険であり、リスクがあるということも母親と相談して決めたことであるのです。


双極性障害はなかなか完治という言葉がない病です。ですがきちんと治療をすれば寛解まで持っていけるかもしれない病なのです。

今回僕は3ヶ月にも及ぶ長い入院生活を体験しました。それでも寛解したとはまだ言いきれません。難しい病気ですが付き合っていく他ありません。


こんなにも長い記事を書いたのは初めてです。

最後まで読んでくださった読者の皆さん、本当にありがとうございました!

2月からまた一人暮らしをしつつ、バイトも程々に再開するので次の記事が書けるのはいつになるかわかりません。でも必ずなんかしらのネタがあればまた書く予定です。

次の記事でまた会えることを信じて。



アディオス!