1995年3月12日の撮り鉄日記
(この日記は1995年3月12日の内容だが、ブログ投稿は2021年9月27日)
前日の日記から続く…
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前夜に、西新井在住のテツの友人、いなてぃす氏と
所沢在住のテツの友人、I氏と
大垣夜行の車内にて待ち合わせをし、大垣方向へ…
(青春18きっぷ使用)
早朝、大垣駅の外のコンビニで食い物を買って、
柏原へ移動。
伊吹山バックとなる撮影地をいくつか歩いて見て廻る。
結局、光線状態の都合で、最初に見た撮影地へ…
(他の撮影地は朝は光線状態が悪かった。他は夕方向けだ。)
以下、撮影地は東海道本線 近江長岡~柏原
キハ58・キハ28(『キロ』も付いてる!?)
急行『たかやま』
[印画紙プリントよりキャプチャー]
このあと、急いで柏原駅へ戻るが、15:04の普通列車があとちょっとのところで行ってしまった。
しかも、いきなり目の前を『サロンカーなにわ』が通過して行った。
もうちょっとネバれば撮れたのに…
『サロンカーなにわ』が来ることは知らなかった。
当時は『鉄道ダイヤ情報』誌等で団臨の運行情報を知り得ていたが、
当時はインターネットもない時代だったので、急な情報は知り得ることができなかった。
今の時代なら、『鉄道楽ナビ』に掲載されていそうだし、
あるいは twitterなどで直前に気付いていそうだ。
それに、この時、テツが集っていなかったのだ。
今の時代なら大勢のテツが集って、多くのテツがなかなか撤収しなかったら、何かもう1本ネタがあるに違いない!と判断できた筈だ。
今の時代、撮り鉄の人口が増えたという意見を散見するが、
当時だって、ネタが走る時は、撮影地に何百人もの撮り鉄が集ることはあった。
しかし、ただのPF牽引のジョイフルトレインだと、テツがあまり集らなかったのだ。
EF58とかEF65- 123とかなどの色ガマじゃなかったら、あまり大勢のテツは集らなかったのだ。
今思うとすごい時代だ。
このあと、俺達は米原へ向かった。
『サロンカーなにわ』に追い付くこともなく、もうすでにいなかった。
米原駅の外に出て、平和堂のマクドナルドでテイクアウト。
当時のマクドナルドは、作り置きしてある場合が多かったが、このときはたまたまオーダー制で
注文を受けてから作っていた(現在では当たり前だけど…)
I氏は自分達の乗る電車に間に合わなくなるから諦めてしまっていた。
ここから、普通列車なので品川駅には23:40頃に着いた。
I氏とは品川で別れた。
上野でいなてぃす氏と別れ、
俺は京成で帰った。