外山滋比古の著書「思考の整理学」が200万部を突破しました。
この本では「素読」について紹介されています。
かつて、漢文の素読が行われました。まだ字も読めないような幼い子どもに「四書五経」といった最高級の古典を読ませるのです。やり方はいたってシンプル。ただ声を出して朗誦するだけ。意味も教えないのが一般的です。
幕末に活躍した多くの青年たちもまた、「四書五経」を暗唱していました。
ひょっとしたら素読は近代日本の土台を築く一役を担っていたのでしょうか?
惜しくも素読という文化的伝統は、明治維新による欧米化とともに途絶えてしまいました。
しかし今、再び素読に注目が集まっています。
素読の生き証人がいます。
中央公論社の世界の名著「孔子 孟子」の書き出しは「素読の思い出」。
私が「論語」という書物を初めて習い始めたのは満6歳、小学校に上がる1年前のことです。
父の言いつけで毎晩夕食後、離れに住んでいた祖父のもとに通うことになりました。
祖父は私とちょうど60歳離れた1844年生まれの旧紀州藩藩士。
第二長州征伐に従軍し、慶應義塾に留学しました。
白いあごひげを生やした祖父の前に座って本を広げると祖父は机の向こうから指示棒で一つひとつ字を指し示しながら「論語」の本文を独特の節をつけて読んでくれました。
三、四度、祖父について声を出して繰り返し読んでいると、最後に自分で字をついて読まされ授業は終了。
翌晩は前日に読んだところを自分で二、三度読み、無事に間違えずに読み上げると
次の段に進むというやり方でした。
素読の伝統はまた、ユダヤにも息づいていました。
旧約聖書を片っぱしから暗唱するのです。
そしてそこからマルクス、フロイト、アインシュタイン、アドラーが生まれたのです。