論語漫歩779  『星の王子さま』 「大人と子供」13 | キテレツ諸子百家〜論語と孔子と、ときどき墨子〜

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孔子、墨子をはじめ諸子百家について徒然なるままに語らせていただきます。

 前回我々は、「うぬぼれ」が、「人間性」の対極にある事を見た。

我々は知っている。「うぬぼれ」(驕り)がサタン(悪魔)の本性であることを。

前回我々は、「うぬぼれ」の対極にある、「譲」(ヘり下ること)と「敬」(人を敬うこと)が、人間の、ひいては国の真のあり方であり、「文化」の本質であることを見た。

 今回は、その続きである。

 

 「プライド」は、もちろん大切である。

しかし、自分を尊敬できる人は、他者をも尊重できる。

夫婦・親子・兄弟姉妹・友人同士・同僚・師弟・上司部下・国同士が、お互いにへり下りあい、敬い合う。それこそが「礼」(文化)であると、五経の一つ『礼記』は言う。

 

   他者のために 命を捧げる

 

これこそが、キリストが、そして星の王子さまがしたことではないか。

その対極が「うぬぼれ」(己を愛すること)である。論語漫歩573「己(おの)れを愛するは善からぬことの第一なり」を再掲してみよう。

 

    今回は、「私」(己れを愛する心)について見てみよう。以下、『西郷南洲遺訓』(岩波文庫1839年P14)第二十六章の全文である。

 

    己れを愛するは善からぬことの第一なり

    修業の出来ぬも

    事のならぬも

    過(あやま)ちを改むることの出来ぬのも

    功に伐(ほこ)り 驕慢の生ずるも

    皆な自ら愛するがためなれば、決して己(おの)れを愛せぬものなり

 

 「己れを愛する心」(私)は、「誠」(天の道)の対極にある。

西郷隆盛は、まさしく「無私の人」・「誠の人」・「天の道を実践した人」であり、キルケゴールの言う「宗教的実存の人」であり、「星の王子さま」そのものであったのである。