論語漫歩721  『星の王子さま』  「この中 真意あり」 | キテレツ諸子百家〜論語と孔子と、ときどき墨子〜

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孔子、墨子をはじめ諸子百家について徒然なるままに語らせていただきます。

前回我々は、ついに、空海生涯の分岐点

   「明星 来影ス」

に辿り着いた。これについては、いずれ触れることにする。

今回は、ちょっと休憩して、『三教指帰』「序」の「明星来影ス」の続きの文について。

   明星来影ス

   つひに すなはち

   朝市の栄華 念念にこれを厭ひ

   巌藪の煙霞 日夕にこれを飢ふ(ねがう)

「朝市」は、「朝廷と市場」・「政界と経済界」・「名誉と財産」・「富・貴」のこと。

「念念」は、「一刻一刻」。「巌藪」は、「けわしい山と沢」。「煙霞」は、「霧・もや・かすみ」

『仏教思想 9 生命の海 <空海>』1968年角川書店P15の訳を引用しよう。

   それ以来、私は名誉や財産に対する欲望がなくなった。そして人里離れたところで大自然と接触する生活を朝な夕なに切望した。

それは、丁度、フランクフルトでホーム・シックにかかり、アルプスの夕焼けを恋焦がれるハイヂの心境であったであろう。

 「大自然と接触する生活を朝な夕なに切望した」は、都会を厭い、田園の居に帰った、「自然詩人・陶淵明」の心境に通じるものが感じられる。陶淵明の詩「飲酒」を引用しよう。

   廬を結びて 人境に在り

   しかも 車馬の喧(かまびす)しきなし

   君に問ふ 何ぞ能くしかると

   心遠ければ 地自ら偏なり

   菊を采(と)る 東籬(り・まがき)の下(もと)

   悠然として 南山を見る

   山気 日夕(にっせき)に 佳(よ)く

   飛鳥 相ともに 還る

   この中 真意あり

   弁ぜんと欲して すでに言を忘る

この詩は、漱石の『草枕』に引用されている。

   うれしい事に東洋の詩歌(しいか)はそこを解脱したのがある。

 

      採菊東籬下 (きくをとる とうりのもと)

      悠然見南山 (いうぜんとして なんざんをみる)

   

   只それぎりの裏(うち)に暑苦(あつくる)しい世の中を丸で忘れた光景が出て来る。