「愛する」ということについて、もう一度記します。

 

「愛する」ということと「好き」ということとは違います。

多くの方の中では、おそらく「好き」と「愛する」ということが同じものになっているのではないでしょうか。

 

「好き」とか「嫌い」というのは表面的な、身体的なものです。

例えば人は他人(ひと)のことを好きになったり嫌いになったりします。

 

何故このように表面的になるのかというと、物的な視点で他人を見ているからです。

でも今の世の中はこれが当たり前なんですね。

 

他人だけではありません。

実は自分のことも物的な視点でしか見ていません。

つまり「自分は物質である」、皆さんそう思っているのです。

物質とはもちろん身体、肉体のことです。

 

いわんや、人間以外の他の生物、例えば動物や鳥や魚介類やムシなどは当然物的な視点で見ていると思います。

そうすると当然ですが、彼らを「愛する」ことは出来ません。

「いや、そんなことはない。自分はペットを愛している」そう自負している人もいるかも知れません。

でもそれは愛ではなく、「大好き」なんですね。

 

もし「愛している」ならば、ペットだけではなく、他の動物も「愛せる」はずです。

では「愛」とは何か? ですが私はこう思っています。

愛とは、「自分がして欲しいように、相手にしてあげること」であると。

これは確かイエスの言葉だと記憶しています。

 

私は動物や鳥や魚の肉を食べることが出来ません。

何故か?

それは、彼らを愛しているからです。

 

そして私はムシを殺傷することが出来ません。

それは彼らを愛しているからです。

 

「愛は奇跡を成就する」、私はそう思っています。

私の家は山あいにあり、家の隣には畑があります。

当然ですが都会と違ってムシの宝庫です。

 

しかし、家にはほとんどムシは入ってきません。

時々、本当に年に1〜2回くらい、ムシが家の中に入ってくることがありますが、ゴキブリとかは出たことがありません。

家は普通の木造の家です。

 

間違って家に入ってきたムシは、もちろん外に逃してあげます。

それは彼らのことを「私と同じ成分でできている生命」だと思っているからです。

 

彼らを生命だと思えるのは、霊的な視点で見ているからです。

霊的の霊というのは生命のことです。

霊的という意味は生命的なという意味です。

私の眼には彼らの身体以外は見えていません、私には生命が見えているわけではないのです。

でも彼らが生命である、というのは意識できています。

見えないものを見るということは、実際に見えるという認識ではなく、見えないものを意識出来るということなのです。

 

つまり、霊的な視点というのは「生命が主体であり、身体は従であるという考え方、背骨で物事を捉えて見ている」という意味であり、決して霊能力や霊眼で見ているという意味ではありません。

背骨というのは、判断の基軸のことであり、言葉を変えると、哲学とか理念とか考え方、と言うことが出来ます。

 

どのような判断の基軸、つまり背骨を持つかは、とても大切なことだと思います。

何故ならば、人間は自分の意志で物事を判断して決めなければならないからです。

 

今世の中は混沌としています。

このような時に「みんながこう言っているから」とか「政府がこうしろと言っているから」ということに迎合しているのは、背骨がしっかりとしていないからです。

 

世の中は「物的な視点」で動いています。

つまり「見えないもの」は従であり、見えるものだけを捉えてものごとを決めています。

これは明らかに「物的な視点」であり、「霊的な視点」ではありません。

 

生命は見えません、肉眼では見えないのです。

みなさんが自分だと思っている身体、肉体はみなさんの生命ではないのです。

 

肉体は、みなさんがこの地上を生きるために与えられた物質に過ぎません。

物質には賞味期限があります。

 

肉体は自転車と同じ、物質、モノなのです。

自転車は人間が乗って動かします。

自転車が勝手に自分で動いているわけではありません。

でももし自転車に乗っている人間が見えなかったら、私たちは自転車が勝手に動いていると錯覚するのではないでしょうか。

 

それは物的な視点で見ているからです。

物的な視点では残念ながら「真実」は見えてきません。

真実を見るには、霊的な視点が必要なのです。

 

動いている自転車ではなく、動かしている人間が重要なのです。

人や世の中を見るときは、物的な視点ではなく、霊的な視点を持つことがとても重要になります。

 

人間の肉体は自転車に過ぎません。

ですから賞味期限が来れば、土に還ります。

それが自分のすべてだと思っていたら、どうなるでしょうか。

 

年老いてきた自分が嫌になるでしょう。

その気持ちがさらに肉体に反映します。

つまり自分で自分の肉体を歳とらせているのです。

 

生命は歳を取りません。

生命は病気になりません。

そしてみなさん、生命は死なないのです。

 

それなのに何故みなさんはそんなに「自分は肉体である」と思いたがるのでしょうか?

肉体は確かに両親の遺伝子を受け継いでいます。

しかしみなさんの本質・本体である魂は、両親の遺伝は一つも受けてはいません。

影響は受けていると思いますが、まったく違うものなのです。

 

ではみなさんの魂の産みの親は誰なのか?

さあ、それは私にもわかりません。

この宇宙や森羅万象を創造したものと同じ「何か」でしょう。

魂よりも霊に近いと思います。

もしかしたら霊というエネルギーが魂の産みの親なのかも知れません。

何故ならば霊というエネルギーは、完全だからです。

 

完全な霊ならば、何故人間はこんなにも不完全なのでしょうか?

それは魂が不完全だからです。

 

魂が完全という目的に向かって進んでいくことを 進化 と言います。

本当の進化というのは物的な進化ではなく、このような霊的な進化を指す言葉です。

 

このような霊的な進化は、生命の宿命であると言えます。

宿命と違う方向に進もうとすれば、必ず正しい方向に引き戻されます。

 

それは、病気や悲しみや苦難や困難という現象として現れてきます。

これらの現象は、霊魂として進む道のどこかが霊的な摂理(法則)に対して間違っているから起きていることなのです。

 

ではどうすれば良いのでしょうか?

霊的な摂理に適った(かなった)生き方をすれば良いのです。

生命である霊魂にとって良いことをすれば良いのです。

 

もちろん簡単ではないことは重々承知をしています。

でも、みなさんの本質・本体は生命なのです。

 

生命のことを、霊あるいは霊魂あるいは魂と言いますが、霊と魂は違います。

 

霊とは、賦活性のエネルギーのことです。

賦活性というのは、自分では活動ができない、という意味です。

つまり霊というエネルギーを活動させるための原動力となる何かが必要だということなのです。

 

その霊を活動させる原動力は「魂」です。

魂とは 意識と意志 のことです。

この魂こそが、みなさんの本質・本体なのです。

 

そして、魂は霊によって生かされており、霊は魂によって活動出来る、つまりお互いになくてはならない、一体不離の存在なのです。

 

肉体は魂の意識と意志によって霊エネルギーが動かしているものであり、霊魂が出て仕舞えば肉体は活動することが出来ません。

肉体があろうと無かろうと、みなさんの霊魂は生き続けていくのです。

 

それでも肉体は霊魂の道具ですから大切にしなければなりません。

でもみなさんの本質・本体は肉体ではなく霊魂なのです。

 

より良く人生を生きるためには、肉体的な物的な視点ではなく、生命的な霊的な視点を持つことが重要であり、そのためには自分の判断の基軸を霊的な視点に立って作っていくことが大事なのです。

 

そうすることで、自分の一生は肉体の一生ではなく霊魂の一生である、という意識を持つことができるようになってきます。

考えて見てください。短い肉体の一生と長い永遠の一生とみなさんはどちらの一生を選択したいでしょうか?

 

意識を変えていくことです。

他力本願ではなく、自分の意志で変えていくことが大事なのです。