まず霊力について説明をします。
霊力は霊という賦活性の生命エネルギーに含有されている大自然の法則が働く時の力のことです。
この大自然の法則は、霊エネルギーに予めインクルードされており、常に生命に対して働いています。
その働く力のことを霊力と言います。
霊力は霊能力のことではありません。
霊能力は人間の力を使うものであり、霊力の入り口のほんの一部に過ぎません。
霊能力を使い続けていると、大きな霊力が使えなくなっていきます。
それはおそらく背後霊に原因があると思われます。
霊能力を使いたいという欲が同じような思いを持って死んだ霊魂を呼び寄せてしまうためです。
霊能力者は背後霊がどういう霊魂なのかは背後霊からの情報でしか知ることができません。
霊能者がうそ、ごまかし、かくしごとをして生きていれば、背後霊も同じような霊性のものが付きます。
だから霊能者は何よりも霊性を向上させることをプライオリティの一番にしなければならないのです。
そうしなければ結局自分が困ることになるのです。
自分の背後霊を知る方法は、審神者(サニワ)に見て判断してもらうという方法があります。
審神者は霊能力者の背後にいる霊魂がどのような霊魂なのかを客観的に見ることができます。
あるいは霊能者の背後の霊魂と話をすることができます。
審神者は自分の精神と心と肉体をコントロールできるほどに魂の修行をした霊能者でなければ務まりません。
そういう人でなければ、見えない世界の真実が見えてこないのです。
果たして今の世の中にこのような審神者がいるのでしょうか?
審神者はどのような肉体的なあるいは世俗的な誘惑にも負けないような高い意識と強い意志を保つように日常の生活をしていかなければなりません。
なぜかというと、審神者にも自分の背後にどのような背後霊がついているのかは見えないからです。
心が緩んだ隙に指導霊ではない霊魂が付いてしまうこともあるからです。
霊能者は多いが、審神者が居ないのは上記のような背景があるからです。
自分には神が付いていると信じている霊能者を審神者が見るとどう見えるのか?
本物の審神者には霊能者の背後霊が指導霊なのかそれとも浮遊霊なのかを見極める力があります。
しかし、ほとんどの霊能者は慣れ親しんだ自分の背後にいる浮遊霊と決別をする決心がつきません。
昔、高橋信次という霊能者がいましたが、彼は審神者の役割も担っていたと思います。
高橋信次は霊能者の背後にどのような霊魂がついているのかを見極める目を持っていました。
しばしば霊能者を壇上に上げて「あなたは誰ですか?」と背後の霊魂に問いかけていました。
神が付いていると思っていたすべての霊能者には浮遊霊の憑依霊が付いていたのです。
高橋信次は、「触らぬ神に祟りなし」とよく言っていました。
そういう高橋信次も47歳という若さで他界をしました。
彼の背後にいた霊魂がずっと指導霊のままだったのかどうかは、私は疑問を持っています。
いずれにしろ、霊能者は審神者となる方向に進むべきである、と私は考えています。
これはイエスが言っている「狭き門から入る」ことだと思います。
霊能者にとっての広き門は霊能力を使い続けることであり、それはまさしく「滅びに通じる道」であると思います。
霊性を向上させずに霊能力を使い続ければ、身も心もボロボロになっていきます。
イエスは「狭き門は命に至る道である」と言っています。
命とは生命のことです。
「狭き門を見出す者が少ない」というのは、この世にいながら霊的な視点を持つことが難しいということを示す言葉だと思います。
霊的な視点というのは霊能力で見えるちっぽけな世界のことではありません。
もっともっと大きな生命の世界のことを言っているのです。
さらに霊的な視野を深めていくのは、まさに険しい道のりであると思います。
そしてこのような狭き門から入る道こそが、審神者に通じる、否、スピリチュアルに通じる道であると言えるのではないでしょうか。
私はそう思っています。