シルバーバーチは「シルバーバーチの霊訓」の中で「あなたは最善を尽くされていますか?」と訊いています。

私は12年前にシルバーバーチの霊訓を読んだ時に、この「最善を尽くす」と言う言葉が深く胸に突き刺さりました。

うろ覚えで申し訳ありませんが、この言葉は確か第4巻のどこかに記されていたと思います。

 

私は「最善を尽くす生き方」は霊性の向上には欠かせないものの一つであると思っています。

では「最善を尽くす生き方」とは一体どのような生き方なのでしょうか?

 

私は「目の前に起こった事象に対して手抜きをせずに一つ一つ自分自身で誠心誠意を尽くす」ことだと思いました。

その極意は「来るもの拒まず、去るもの追わず」だと思います。

 

この宇宙には偶然は一つもない、私はそう思っています。

何かの事象が自分に起きたということは、それは偶然起きたのではないということだと思います。

その前に何かしらの原因を自分が作っているのです。

もしかしたらそれは自分がまったく意識できていないことかもしれません。

 

多くの人は起こった事象に対して、無意識で取り組むか取り組まないかを選択しているのではないでしょうか。

おそらく、それほど深く考えないで選択していると思います。

 

私は選択をしないで、すべての事象を受け入れるようにしています。

受け入れて、その事象に対して、最善を尽くすようにしています。

なぜって、そうしないと自分の気持ちが収まらないからです。

 

だから、去るもの追わず、になるのです。

そうしないと、とてもではないですが、時間が足りません。

来るものをすべて受けて最善を尽くすだけで精一杯なのです。

 

来るものに対して最善を尽くせば、後悔はしません。

後悔することほど無駄なことはありません。

後悔するのは、自分に起きる事象に対して最善を尽くしていないからだと私は思っています。

 

人間は不完全なのですから、間違いは誰にでもあります。

ただ自分が最善を尽くしていれば、たとえ間違っても後悔はしないと思います。

 

マザーテレサは最善を尽くすを「一つ一つの小さなことにも愛を込める」と表現しています。

以前神奈川のサレジオ学園の生徒が事故で複数亡くなった時に、校長先生が「もっと日常で愛情を持って接していれば良かった」と後悔していらっしゃいました。

これは誰にでも起こる可能性があることだと思います。

 

例えば今朝家族に対して「行ってらっしゃい」と声をかけたとします。

この時には誰もが元気に帰ってくるという想定のもとで声をかけているのだと思います。

 

でも私は違います。

必ず「気をつけてね」と一言付け加えます。

この時に一期一会の気持ちを込めて言っています。

言い換えると、マザーテレサの小さなことにも愛を込める、ということだと私は思っています。

 

「そんなことまでしていたら疲れちゃうよ」とおっしゃる方がいるかもしれません。

でも私はそうしないと自分の気が済まないのです。

 

私は「想定外のない生き方」を志しています。

常に緊張感のある生き方をしていたいのです。

 

「人生には想定外がつきものである」そう思っている方が多いかもしれませんが、私はそうではないと思っています。

「想定外のない人生」は可能だと思います。

想定外がなければ、どれだけ人生が楽になるでしょうか。

 

「自分に起きる事象は、すべて自分にとって必要だから起きている」のではないでしょうか。

それは自分という魂が成長するために必要だから起きていると考えられないでしょうか。

ならば認めて、受け入れるしかないのではないでしょうか。

 

自分に起きる事象は、自分の器よりも少し大きな事象が起きるようにできている、そう私は思っています。

だからそれらは苦しく辛い困難であるように見えることが多いのです。

しかし、その事象に自らが誠心誠意取り組むことによって、自分という器がほんの少しだけですが大きくなるのです。

「最善を尽くす」というのは、まさに自分の魂の器を大きくするために必要不可欠なことである、と私は思っています。

人生はその連続だと私は思っています。

 

だから絶対に諦めてはいけないのです。

苦難や困難だと思えることこそが、自分という魂を成長させるのです。

 

日常で最善を尽くす生き方こそが、自分の霊性を向上させる生き方である、私はそう思っています。