言語行為の類型
サールは言語行為を主張(assertive)、約束(commissive)、命令(directive)、表出(expressive)、宣言(declarative)の五つに分けた。私は、コミットメントを基礎にして言語行為を考える立場を援用して、別の分類を試みたい。私の分類では、宣言と表出は主張・約束・命令とは系統が大きく異なるものと位置づけられ、命令は、質問と要求の二つに分けられることになる。
コミットメント・アプローチの言語行為論に対する貢献は、言語行為において「誰がコミットするのか」という点に注目を向けさせたことである。「Pだ」という主張や、「Pします」という約束は話し手が何らかのことにコミットするのに対し、「Pしてください」という要求や、「Pですか」という質問は、話し手が何かにコミットするのではなく、話し手が聞き手にコミットするよう促している、というのがコミットメント・アプローチが到達した洞察である。
私はこの洞察に、サールやアンスコムの”direction of fit"の議論を付け足したい。サールやアンスコムによれば、主張と約束が違うのは、言ったことと事実が乖離した場合に、言葉と事実のどちらが間違いとされるか、という点にあらわれるのであった。主張の場合は、乖離が生じた場合それは言葉の方がいけなかったのだとされるのに対して、約束の場合は、乖離が生じたときにはそれは事実の方がいけなかったのだとされるわけである。同じことは質問と要求にも言えるだろう。質問や要求では、言葉と事実が一致することに関して責任を負うのは話し手ではない。話し手は聞き手に責任を負うよう促し、聞き手はその提案を承諾することも拒絶することもできる。もし聞き手が提案を承諾したら、事実と言語の一致に関して責任を負うことになるのは聞き手である。そして一致しなかった場合に言葉の方がいけないとされるのが質問であるのに対し、一致しなかった場合に事実の方がいけないとされるのが要求であると言うことができるであろう。質問というのは、いわば聞き手に主張を促すことであり、要求というのは、いわば聞き手に約束を促すことなのである。
二通りの”direction of fit"と、責任を負うのが話し手であるか聞き手であるかを区別することで、今や下図のように四通りの言語行為を区別できるようになった。
不一致の場合言葉が訂正される 不一致の場合事実が訂正される
一致について話し手が責任を負う 主張 約束
一致について聞き手に責任を負うよう促す 質問 要求
私が「要求」と言い、あえて「命令」と言わなかったのには理由がある。上の四つの言語行為は、誰もが誰に対してもできる言語行為であるという特徴があるのだ。それに対して聞き手が拒否することを許さない「命令」という言語行為は、限られた人間関係の間(先生と生徒、上官と部下)でしか成立しないのである。例えば、ある人は対等な友人に何かを命令することができない。その点で命令は、次に述べる、資格のある者にしか行なうことができない「宣言」という言語行為の類型に近いことになるのだが、一応要求の一種であると考えておくことにしよう。
宣言は、その言語行為をすることがある社会的事実を作り出す、という効力を持っている(命名や開会の宣言など)。宣言は上記四つの言語行為と違い、それを行なうために一定の資格を必要とする。例えば赤ん坊の命名はその子の親でなければできない。また宣言には、主張や約束や質問や要求が持っているような真理条件・充足条件を持たない。宣言は、言語と事実の間の一致や不一致が問題になるような言語行為では、そもそもないのである。
私がまだ十分分かっていないのは、表出という言語行為の立ち位置である。これは自分の心的状態についての主張と考えていいのだろうか。あるいは表出することによってそのような状態にあるという事実を作り出しているのだから、それは宣言に近いと言うべきなのだろうか。更に考察を深めていきたい。
生物を解釈する
生物学は、物理学や化学と扱う主題が違うというだけではない。生物学には、物理学や化学にはない独特の問いの立て方があるのだ。例えば分子生物学の研究で、新しい蛋白質が発見されたとしよう。生物学者が次に何を考えるかと言えば、「この蛋白質にはどういう機能があるのか?」ということである。蛋白質の分子量や立体構造を決定するのはもちろん大事なことだが、それらの研究が大事なのは、「この蛋白質は何のために存在するのか」という究極の問いに答えるための一助になるからなのである。
「物事がそのようになっているのはなぜか?」という問いに対し、その物事がそのようになっている目的に言及することで答えるのは、アリストテレスの用語を借りれば、「目的因」に言及した説明である。生物学の特徴は、目的因に言及しながら物事がかくある理由を説明するという点である。生物学と言っても、生物を扱うという点で共通している生態学、心理学、医学、ミクロ経済学なども、この中には含めることができる。この特徴は、生物よりもより小さな単位を扱う物理学や化学、生物よりも大きな単位を扱う(記述的)社会学や(記述的)政治学やマクロ経済学には見られないものである。例えば結晶が特定の構造をとる理由は、物体はエネルギー準位が低くなるような構造を取るという原理から説明されるかもしれないが、エネルギー準位が低い状態になるというのは、物体の目的ではないだろう。また、ある社会現象、例えば噂が頻発する理由や、ある政治的現象、例えば緩衝国というものがどうして生じるのかを説明する際にも、目的因に言及するのは誤りである。というのも、目的に言及してものごとを説明することが可能なのは、物事がそうあることによって恩恵を受けるような、単一の合理的なエージェントが背後にいる場合に限られるからである。
生物の形態や行動には、その生物が生存し、子孫を残すことに貢献するような機能が備わっている。もちろんアヒルは思案を練った末に「水の中を泳ぎやすいように足に水かきをつけよう」と決めたわけではないし、カエルは自ら考えて「皮膚に何かが当たったら反射的にジャンプして逃げるようにしよう」と決めたわけではない。だが、進化のプロセスにおいて選択されてきた形態や行動は、たいていはその形態や行動を有する個体が、生存し子孫を残すことに寄与するような機能を有していたために選択されてきたはずである。そうであるなら、あくまで比喩的な意味ではあるが、生物の背後に合理的なエージェントを想定し、そのエージェントが「生物の形態や行動をどのように設計すればその生物が生き残り子孫を残すことができるだろうか」と思案した結果として、現在の生物の姿があると考えると、大変都合がいいのである。
生物学では、経済学が想定するような利己的な合理性を生物に帰属させながら研究を進めると、研究が効率的に進むことが少なくない。例えば新しい蛋白質を発見した場合は、例えばその蛋白質が何かの酵素になっていて、細胞内のシグナル伝達経路に関与しているはずだと仮説を立てることによって、その蛋白質によって触媒されるような新たな蛋白質の発見につながったりするだろう。つまり、その蛋白質がたまたま存在するのではなく、何か目的があって存在するはずだと仮定することによって、研究を進める上で次に着目すべきなのが何であるのかを効率的に絞り込むことができるのである。
合理性を相手に帰属させながら研究を進めるというのは、他者の言語の解釈する場合も同じである。これはドナルド・デイヴィドソンという哲学者が明確に打ち出した主張であった。デイヴィドソンは、未知の言語を話す人を解釈するという、「根源的解釈」と彼が呼ぶ状況について考察しつつ、次のように考える。未知の言語の個々の文が何を意味するのかを解明するには、未知の言語の話し手の信念や欲求を知らなければならない。しかし未知の言語の話し手の信念や欲求を知るためには、未知の言語の個々の文の意味を知らなければならないという循環的な状況がある。このような状況で、どうやって解釈理論を打ち立てていくとっかかりを掴めばいいのだろうか?デイヴィドソンは、まずは相手が自分と同じ信念、同じような欲求を持っていることを仮定して解釈を進めていくしかないでしょう、と論じる。相手が自分と同じであると仮定するというのは、相手が自分と同じように合理的なエージェントであると仮定し、同じ状況だったら自分はどうするだろうか、と相手の立場に立って考えてみることである。この仮定はもちろん100%正しいというわけではなく、相手や自分が誤った信念を持っていたり、思い違いをしていたりするために、後に誤りであったと分かることもある。だが、大抵は正しいはずなのだ。というよりも、相手の信念と欲求が自分の信念と欲求と大抵は一致していないと、相手を解釈しようがないのである。根源的解釈の場面に限らず、一般に相手の言っていることを解釈するときは、相手を可能な限り合理的な存在者として解釈しなければならない/するしかないというテーゼは、「寛容の原則」〔principles of charity]と呼ばれている。
物言わぬ生物の形態や行動を解釈するときも、同じようなことが言えるだろう。生物を解釈するときにも、生物の立場に立って、それがその生物にとってどのような利点があるのかという観点から解釈するべきなのである。もちろん時に生物の行動にも誤りがあり、時に生物の形態にも無駄があるのは事実だが、生物の形態や行動は、大抵はその生物にとって有益なものだったからこそ選択されてきたはずだからである。生物学にも、寛容の原則に相当する格言がある。それは「自然はあなたよりも賢い」というものだ。一見すると何の機能も果たしていないように見えるものも、丹念に調べていくうちに驚くべき役割を持っていることが判明することがあるのである。「へんないきもの」(早川いくを著、バジリコ、2004年)という本が最近出版されたが、この本に紹介されている生物の奇妙な形態にも、おそらくはそれなりの理由があるはずなのだ。隠された意図を探究する努力を怠り、それらの生物を「へん」だと切り捨ててしまったのでは、生物学の最も重要で面白い部分を見失ってしまうだろう。
