8月11日(水),雄島(宮城県宮城郡松島町松島字浪打浜),福浦島(松島町松島字仙随),五大堂(松島町松島字町内)を散策して来ました。写真で報告します。今日は,その第1回です。
なお,新型コロナウイルス(中共・武漢ウイルス)の陽性反応者が爆発的に増加している上,平日であるにもかかわらず,人出がかなり多く,驚きました。できるだけ人が写真に入らないようにするため苦労した場所があります。
まず,雄島(おしま)です。
渡月橋(とげつきょう)です。
御嶋瑱(真)珠稲荷神社(おしましんじゅいなりじんじゃ)です。
さて「おくのほそ道」に,松尾芭蕉は塩竈から「船をかりて松嶋にわたる。其間二里餘,雄嶋の磯に着く。」とあります。元禄2年5月9日(1689年6月25日)のことです。その船が着いた場所がここであると言われています。ただし,一つの説です。
松尾芭蕉「朝よさを 誰まつしまぞ 片心」,河合曾良「松島や 鶴に身をかれ ほととぎす」の句碑です。芭蕉の句は「朝となく夜となく松島の景色が思い出されるのは,誰か私を片思いに待っていてくれる人がいるからであろうか。」ということだそうです。ただし,松島で詠んだものではなく,旅に出発する以前の句です。芭蕉は松島で一句も詠めないと記しています。曾良の句は「ホトトギスが鳴きながら飛んで行く。松には鶴が似合うので,せめて鶴の姿を借りて鳴いてくれ。」ということです。
「弘安八年乙酉八月彼岸中日」と記された雄島最古の板碑です(弘安8年8月15日は1285年9月15日)。雄島には多くの板碑が存在していますが,周囲海底には更に多くの板碑が落ちたまま残されていることが明らかとなっています。多分投棄されたのでしょう。
国指定重要文化財「奥州雄島頼賢の碑」(昭和36年6月22日指定,拓本が瑞巌寺宝物館に展示されています。)です。この地で22年間にわたり修行していた雄島妙覚庵主頼賢(らいけん)の徳行を後世に伝えようと徳治2年(1307年)に弟子30余人が建てたものです。中央上に梵字の阿字を刻し,右に「奥州雄島妙覚庵」,左に「頼賢庵主行實銘並序」と記してあり,当時の松島の様子も刻まれているそうです。ただし,見えません。
雲居禅師(うんごぜんじ,雲居希膺(うんごきよう))の座禅堂「把不住軒」跡です。
雄島は古くから僧侶の修行の地であり,「奥州の高野」と称される死者供養の霊場でした。島内には多くの岩窟があります。
渡月橋を渡り,福浦島を目指します。
それでは,明日の第2回に続きます。