鹽竈神社由緒 | 哲風のBLOG

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 「海と社(やしろ)に育まれる楽しい塩竈」を目指している宮城県塩竈市に鎮座する志波彦神社鹽竈神社の神事,四季の移り変わりや,仙台,塩竈,多賀城,松島など宮城県内各地の名所,旧跡,行事などを紹介します。

 鹽竈神社(宮城県塩竈市一森山)と伊達氏(仙台藩主家)の密接な関係の紹介・第8回です。

 

 鹽竈神社東神門下(東側)にある鹽竈神社由緒です。

 

由緒

 

 由緒には,「当神社は,武甕槌神と経津主神の二神が鹽土老翁神の案内により陸奥国を鎮定して当地に祀られたのが始まりとされる。鹽土老翁神は,当地に留まって人々に塩つくりを教え広められたと伝えられる。平安時代編集の「弘仁式」並び「延喜式」に「鹽竈の神を祭る料壱萬束」と記されていることから,当時すでに重要な神社であったと考えられる。その後も武家による崇敬を集め,特に江戸時代には,仙台藩主伊達家は厚い崇敬を寄せ,歴代の仙台藩主は,社領などを寄進するとともに,自ら祭事を司った。」とあります。

 

 律令制度は,律(刑法に相当),令(行政法・民法に相当),格(きゃく,律令の修正・補足のための法令と詔勅),式(律令の施行細則)によって運用されます。弘仁(こうにん)式は弘仁11年(820年)に,延喜式は延長5年(927年)に完成しました。それらの主税帳に,「祭鹽竈神料壱萬束」とあります。当時陸奥國運営のための財源に充てられていた正税(しょうぜい)が60万3000束(そく)です。つまり,正税の約60分の1の祭祀料を受けていたということになります。1万束が何石に相当するのか諸説があるのですが,約90人の鎮兵(城柵に勤務した兵士)が1年間に消費する食糧に相当するとの説があります。1石は成人1人が1年間に消費する量にほぼ等しいと見做されましたので,この説によれば約90石ということになりそうです。

 

 仙台藩初代藩主・伊達政宗は,元和5年(1619年)鹽竈神社に社領として24貫336文(仙台藩では1貫文は10石ですので,約243石)を寄進しています(うち約146石が社家分,その余は別当・法蓮寺及び脇院分)。ただし,高橋正己「鹽竈神社旧社家の歴史」(昭和56年12月)によれば,政宗は留守氏時代の社領を没収した上で改めて寄進しており,寄進された社領は元の知行高をはるかに下回ったとのことです。「元の知行高」は不明ですが,「16世紀半ばの法蓮寺は41貫600文(416石)を寺領にしていた」(「寺家しゃ家之日記」)との記録があるようです。

 第4代藩主・綱村の寛文3年(1663年)鹽竈神社に社領として7貫584文(約75石)を寄進しています。ただし,すべて法蓮寺に渡っています。ここで,法蓮寺側が社家側を知行高で上回ることになりました。綱村は当時5歳ですから,この寄進は隠居した第3代藩主・綱宗の意志によるものと思われます。 

 第5代藩主・吉村の寶(宝)永元年(1704年)鹽竈神社に社領として55貫文(550石)が寄進されていますが,「一山の社家社僧は法蓮寺の下知に従え。」と命じられました。

 最終的に,伊達氏から寄進された「石高は1035石2斗で,このうち170石を祭料とし,その余りは法蓮寺別当社家社僧で配分した。」(押木耿介「鹽竈神社」)とのことです。法蓮寺は,神仏判然令(慶應(応)4年(1868年))を受け,明治3年廃寺となっています。

 

 鹽竈神社は,江戸時代に3度大規模な造営がありました。まず,「慶長の造営」です。初代藩主・政宗の慶長10年(1605年)頃から着手され,慶長12年(1607年)竣工しました。ただし,資料が少なく,整備は第2代藩主・忠宗の時代まで掛かっているようです。屏風絵などから,随身門の代わりに長床があり,拝殿は無く,本殿が2棟並んでそれを廊下で結んでいるものであったと考えられています。

 次に,「寛文の造営」です。第4代藩主・綱村の寛文3年(1663年)の竣工です。特徴は,本殿は1棟で廊下によって拝殿と繋がり,拝殿の東側には貴船社,只洲宮の2社が建つ配置でした。

 更に,「元禄の造営」があります。綱村の元禄8年(1695年)に工事を開始し,第5代藩主・吉村の宝永元年(1704年)竣工しました。鹽竈神社の現社殿はこの「元禄の造営」によるものです。長床に代わって随身門が置かれ,更に内側の門(四足門)の両側には廻廊が配されました。正面には南南西向きに左右宮の拝殿と本殿,右側には西北西向きに別宮拝殿と本殿が置かれています。別宮拝殿は「寛文の造営」の本殿を改修・転用したものです。

 

 江戸幕末まで鹽竈神社には宮司家が存在せず,初代・政宗以降歴代の仙台藩主は大神主として自ら祭事を司っていました。実質祭祀を行っていたのは禰宜家です。宝永年間の社家は29家で,上位の5人(左宮一禰宜,右宮一禰宜,別宮一禰宜,祝詞大夫,左宮二禰宜)を番頭とし,他の社家23人を指揮していました。また,御釜神社専従の社家(御釜守)が1人いました。左宮一禰宜が神職中筆頭の地位を継承していたのは明らかです。