伊達綱村 | 哲風のBLOG

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 「海と社(やしろ)に育まれる楽しい塩竈」を目指している宮城県塩竈市に鎮座する志波彦神社鹽竈神社の神事,四季の移り変わりや,仙台,塩竈,多賀城,松島など宮城県内各地の名所,旧跡,行事などを紹介します。

 鹽竈神社(宮城県塩竈市一森山)と伊達氏(仙台藩主家)の密接な関係の紹介・第2回です。

 

 鹽竈神社四足門(唐門)前(西側)の寛文13年(1673年)和田房長(半之助)献納の石燈籠です。房長は,仙台藩第4代藩主・伊達綱村の命を受けて,貞山運河(御舟入堀,御舟曳堀)の工事を担当しました。鹽竈神社の御加護に感謝したものです。「石燈籠二基」を献納したとあるのですが,近くにもう1基が見当たりません。もう1基は,鹽竈神社左右宮拝殿東側の立入禁止区域にあります。何故離れた場所に置かれているのかは,不明です。

 なお,撰文の佐藤昭典氏は郷土史家のようです(「河北新報」平成29年9月7日)。

 

綱村(1)

 

綱村(2)

 

綱村(3)

 

 平成30年10月20日,鹽竈神社で「伊達綱村公顕彰碑除幕式」が挙行されました。その「伊達綱村公顕彰碑」です。綱村は「塩竈の恩人」と語り継がれて来ました。綱村の功績を後世に語り継ぐため,塩竈市民から広く協賛を得て,祭務所前に顕彰碑と解説板が建立されたのです。鹽竈神社を深く崇敬していた綱村は,寛文13年の御舟入堀(おふないりぼり)の完成などにより経済情勢が悪化していた門前町塩竈を救うため,貞享2年(1685年)に9箇条からなる塩竈振興令を発しました。これが「貞享特令」と呼ばれるもので,年250両に及ぶ金子の下賜,年貢の免除,商売の荷物や海産物を積んだ船,仙台藩領や他領の材木を積んだ船は必ず塩竈へ入港するよう定めたことなど,異例と言える内容で,衰退していた塩竈が息を吹き返す契機となったのです。御舟入堀は,米中心の輸送路として江戸幕末までその役割を果たすこととなりました。

 なお,綱村は「塩竈の恩人」ですが,仙台にとってはどうか,意見があります。御舟入堀が建設されたことによって,松島湾から外洋へ出る必要がなくなり,仙台城下まで安全かつ大量の物資輸送が可能になったわけで,米以外の荷物を塩竈で水揚げさせるのはいかがなものかというわけです。また,綱村は第7代藩主・重村とともに,仙台藩財政を逼迫させたとの評価があります。

 

 

綱村(4)

 

綱村(5)

 

綱村(6)

 

 鹽竈神社表参道(表坂)入口(塩竈市西町)の鹽竈海道(県道北浜沢乙線,幅員18m~26m,総延長843m)沿いの歩道上にある「貞享四年(一六八七) 伊達綱村公二十九歳の詩」碑です。綱村が貞享4年(1687年)に鹽竈神社に参詣した様子を詠んだ漢詩(五言律詩)が刻まれています。肯山公三百年遠忌記念顕彰碑実行委員会が建立し,塩竈市に寄贈した黒御影石製の碑です。「肯山」とは,綱村の法号(大年寺殿肯山全提大居士)です。
 碑文は,「詣鹽竈 山頭雲鬱鬱 路上雪翩翩 鶏啄南宮里 鴨遊岩切川 風過江海近 烟起竹村連 鹽竈停車處 默祈靈社前」です。現代語訳は,「鹽竈に詣る 山頂には雲が鬱々とかかっている 路上には雪がひらひらと舞っている 南宮(現・多賀城市南宮)の里では鶏が餌を啄み 岩切川では鴨が遊んでいる 風は川や海を越えて近づき 烟は村々から起こって連なる 鹽竈で車(駕籠)を降り 鹽竈神社の前で静かに祈る」とのことです(塩竈市平成31年2月定例記者会見資料)。

 ここでは,「烟」(けむり)が重要と思われます。仁徳天皇の「民の竈」の逸話(「日本書記」)にあるように,竈の煙が立ち上っているということは,庶民の生活が豊かであるということです。綱村は,それを鹽竈神社に祈るということなのでしょう。

 

綱村(7)