「音楽」、そして「楽曲」とはそれぞれの人の記憶と密接に結びついているものだと思う。

例えば、「あゆのあの曲がヒットしてた時、自分はあれしてた頃だよね」とかそんなに好きでめちゃくちゃ意識している訳では無くてもそれなりの大ヒット曲とかであれば(或いは、その時に好きで聴いていた曲)「曲と記憶」が無意識に繋がってしまっている。

また例えば、LUNA SEAの「ROSIER」を聴いて「懐かしい」と思う人もいれば、全然「懐かしい」と思わない人もいる(その曲が自らの血となり肉となっている人)。 

当たり前だけどそういう感覚は本当に人それぞれなのだと思う。


fishbowlさんの2025年夏の新曲「蒼霞」。

それを意識して書かれた曲なのかどうか本当の所は僕にはわからないが、新間いずみさんの卒業とこの曲の歌詞が僕の中で密接にリンクしてしまって初めはあまり聴けなかった。

「いやいや、こんなん無理やで。泣いてまうわ。」と。

好きで現場に会いに行っていた(「通う」という言葉はあまり好きでない)アイドルさんの卒業という体験が個人的に初めてすぎて戸惑った。

それはもう本当に「自分どうなってしまうのだろうか」というのがわからなすぎて。

基本的にはマイペースな性格なので、それを受けても、行ける時に会いに行くとか行動はあまり変わらないかなと思っていたけど、もっと先にアップしようと思っていた動画を突然アップしてしまったり、チェキが2ショばかり(一緒に収まっている姿をたくさん残したい)になったりとやはり何かを受けて人の行動は変わるのである。

東京編・追加公演と卒業公演が3回あったわけですが、泣いても笑ってもいよいよこれが最後の静岡公演。

今日はもう「新間さんの歌声と一挙手一投足をこの目と身体に焼き付けるのだ」という気持ちでライブに臨んだ。

今考えれば至極当たり前の事なのだが、泣いちゃって曲紹介できなくなってしまっている大白さんを見て「ああ、メンバーさんにとってもまた最後なんだよな」と気付いた。

そんな当たり前の事に改めてあの瞬間にまた気付いた。

演者もヲタクも1曲1曲の集中度が物凄く高い本当に素晴らしいライブだったと思います。

猛獣がまったく猛獣で無くてくそ可愛かったり、「ああ、僕は四季のサビのジャンプを見て新間さんを好きになったんだよな」とか、そういう瞬間瞬間の思い出と共にライブを見ている今は最高だけど、それがもう最後なのである。

今は最高なんだけど、そういう最高な瞬間がもう更新されていかないという事が悲しくてところどころでぐずぐずと泣いてしまった。

そして、アンコールでの「蒼霞」。

もうイントロを聴いただけで嗚咽級の爆泣きであった。

涙が頬をがんがんに伝うほど泣いたのは本当に久しぶりな事だったけど、今日はもう垂れ流しでいいとも思った。

初めはなんだか受け入れられなかったが、ふと気付いたら「新間いずみさんがfishbowlを卒業した2025年の夏・秋」が己れの血と肉のようにもう見事にこの曲に思い出と共に封じ込められていたのである。

特典会は、普段囲まれる人ではないので緊張もあり囲まれなかったけど、「真顔で棒立ち」をお願いしました。

それは今までの新間さんとの2ショのオーダーがもうほぼ「真顔で棒立ち」(ここで初めて言うと思いますがweezerの1stジャケ写オマージュ的な)か「こっち見てください」だけだったので(サービス精神旺盛な新間さんは毎度変わらない僕のオーダーに色々優しくしてくれたわけですが(時にガン無視))。 

なんかとても良くないですか?

僕はこの今の5人体制しか知らない人間なのでもう本当にありがたいですありがとうございました。

そしてお疲れ様でした。


多分、本当に色々と卒業を実感するというか寂しくなるのはこれからの日々なのだろうと思います。

けどそんな時には己れの血と肉のように思い出がたくさん詰まった「蒼霞」を聴けばきっとその寂しさに寄り添ってくれたり、支えてくれるはずであると思いたい。

もしかしたらただただ寂しさが増すだけかもしれませぬが()。

けど「寂しい」と思う事って忘れてないという事だとも思うから。

けど人間ってやっぱり色々忘れていってしまう生き物だったりもします。

この先もし仮に記憶として忘れてしまったとしても、それはもう自分の中で一生消えることがないものだとも思います。

卒業おめでとうございます。

本当にありがとうございました!

またね!!!