京都に行く、という新幹線で読んでみようと手に取ったが、「京都嫌い」の二番煎じで、京都生まれで宇治育ちという筆者と同じ境遇の私にとっては読んだことがある、知っている、何度も聞いたことがある、もうええやろ、分かった、という内容だった。日本の良さは、日本を離れた時にこそわかるように、自分にとっての京都の良さは、京都を離れて時間が経過して、何十年ぶりかに京都の町を歩いてみたときに分かる、なんていうこと。

 

小学校時代から大学卒業までを京都、宇治で過ごしたのは筆者と同じ私であり、京都に帰ると学校時代の友人たちと会うことにしている。退職してからは年に何度も京都に帰り、学校時代にともに過ごした時間を超えるほどに、食事をしたり、旅行に行ったりと、同窓生、同級生たちと旧交を深めている。そうしたお付き合いの中で確かめているのは、ケンミンショーで何度も繰り返し放送される大阪のおばちゃんや、おっちゃんたちの生態、ボケと突っ込みの応酬、これは本当にあるのか。京都の人たちの本音は本当に分かりにくいのか、ということ。これはカメラが回り、期待にこたえる形での演技が展開されているに違いない、というのが私の見立て。しかし演技であっても、それは多くの人がそう思ってくれているとしたら、その期待を裏切りたくないのが人情であり、少なからずそうした関西人分析の片鱗は存在するのは確かなので、カメラがあってもなくても、期待されるとおりの関西人、京都人になってしまおう、という振る舞いもあるのかもしれない。

 

京都にもいろいろな人たちがいるのは確かだが、多くの同級生たちは京都で生まれ、そのまま京都で暮らす人たちが圧倒的に多いことも確か。そこは東京とは大いに違う。東京で地方から来た人たちが東京人ぶるのとは奥の深さが違うといえる。「前の戦争で焼けたとき」が蛤御門の変の話、というのは、本当に京都の人たちが思わず口をついて出てしまう、ちょっとした京都自慢付きの本音でもある。つまり、根も葉もない話ではないが、ちょっとした話ついでに定型的な京都自慢を会話の流れの中に埋め込んでしまう技を磨きあげているのが京都人、ともいえる。大阪人も、大阪人に期待される瞬間的な返しや反応を磨き上げている実態があるように思える。つまり、ケンミンショーで描かれる典型的な京都人や大阪人は結構多い、というのが私の評価。

 

京都人は京都のことが大好きで、大阪人も同様で大阪好きである。だからそこに何の問題もない。今更、京都人や大阪人の正体を知ったところで、関東人が関西人を演じたり、反発したとしても、いいことは少しもなくて、その逆も同じ。関西人たちも、楽しく、納豆や色の濃いうどんを食べれば少しは関東のことを理解できるかもしれないし、関東人もなんば花月でお笑いに触れてみることも重要。

 

本書の中で、「関西弁では論理的に難しいことは考えられへん」という記述があったが、これは本当かもしれん、というのが私の感想。どうも関西弁を頭に思い浮かべるのは「ビジュアルシンカー」的な視覚思考感覚なのかもしれないと思う。言語思考者の私は、この脳内のよじれを前向きに利用していける可能性について考え始めている。本書内容は以上。