南北朝の時代は、日本史の中でも複雑怪奇であり、誰が誰と組んで、対立の中で敵と味方が入れ代わり立ち代わり、北条氏による独裁が、特異な天皇の存在がきっかけとなり地方勢力によりひっくり返された歴史である。建武の新政以降は、京都の「北朝」と吉野の「南朝」二つの朝廷が対立し、裏切りあり、内ゲバあり、骨肉の争いありと、約半世紀にわたり繰り広げられた南北朝の争乱だった。東北から九州まで日本全土を巻き込んだ史上初の全国的大乱は、やがて「応仁の乱」の萌芽となり、戦国時代へと連なる一大変革期となった。本書では、この内乱の推移を、元寇とその結果としての幕府集権力低下、東国武士挙兵の象徴だった南朝方の結城宗広、そして公家勢力の基盤となる楠木正成、吉野朝廷となる後村上天皇、室町幕府の創設者となる北朝方の足利尊氏、守護大名の代表的存在となるバサラ大名としても有名な佐々木道誉、国内統一の完成形を達成した足利義満に焦点をあてた。

 

1274年10月18日、対馬に蒙古の大軍が押し寄せたニュースが六波羅にもたらされ、朝廷ではその時に準備中だった大嘗祭の延期と異国降伏の祈祷が議論されたというから暢気なものであった。しかしその知らせを聞いた鎌倉では11月1日に西国御家人、非御家人にも召集と勲功の約束を行った。結果的には元寇は破られたが、勲功の賞が十分でなく、そもそも御家人の所領は諸子への分割相続により細分化しており、大飢饉などもあいまって、北条氏以外の地方御家人たちの不満は高まっていた。地方荘園は地頭的領主であった御家人への百姓たちの不満となり、土一揆の頻発という形で表面化、側面的には農民の団結による悪党の出現もあった。一方で北条氏による独裁的土地支配があり、北条氏執権体制は最後の時に向かう針を刻んでいたといえる。

 

後醍醐天皇が数回の政権転覆を試みたのはそんな時代であり、奥州では石巻の葛西氏、その奥には南部氏、そして伊達氏、斯波氏、石塔氏、出羽の最上氏などがいて、その東北地方で藤原氏以来の勢力を集約していたのは結城氏だった。そのみちのくの地に蒙古襲来以来の波紋を伝えたのは正中の変となる天皇の御謀反の知らせだった。正中の変が失敗しても後醍醐天皇の意思は変わらず、対立していた御深草天皇の持明院統である伏見上皇と亀山天皇の大覚寺統の御宇多天皇との間に結ばれた両統迭立の協約では自らの子孫が皇位に就く機会が失われると考えて、再挙を謀る。この挙兵に対する西上幕府軍の大将が足利高氏であり、後醍醐天皇の気持ちとは別に、当時の多くの東国武士たちとしては後醍醐天皇の側に味方したい気持ちが芽生えていたと考えても間違いはない。しかし幕府軍は後醍醐天皇の笠置山を包囲して、この時も元弘の変は幕を閉じる。

 

明けて1332年には後醍醐天皇は隠岐に流され元弘の変も幕を閉じたかに見えたが、後醍醐天皇は伯耆の名和長年を頼り隠岐を脱出、倒幕の綸旨が発せられる。伯耆に派遣された足利高氏の寝返りが伝わると、足利氏が源氏の嫡流であっただけに大きな衝撃となって伝わった。

 

高氏はこの内乱の勲功により武蔵、相模、伊豆を分国として与えられ、尊氏の名前を下されていたが、中先代の乱を経て、奥州管領を勝手に設置、尊氏と新田義貞の戦いを見ながら、東国武士たちは勝馬に乗りたい、という動きとなる。足利氏の系譜を見ると、この時代以降の勢力争いの縮図がみられるようである。斯波、細川、畠山、仁木、一色、京極、山名、そして徳川、今川と室町から戦国時代に至るオールスターがこの中に見られる。室町幕府の集権体制も義満までで極まったかに見えるが、その後は山名、細川、そして地方守護と守護代たちにより下剋上の世の中への移っていく。どの地方勢力も、こうした源氏嫡流の象徴をリーダーとして担ぎ上げて、勝馬はどこか、その鍔迫り合いに鎬を削るのである。本書内容は以上。