ネイティブ・インディアンと新しい意識 | Work , Journey & Beautiful

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オルタナティブな学びを探求する

ミテモHOMEROOM(ミテモが展開してるメディア)への記念すべき初投稿。テーマはなぜか、アメリカン・インディアンについて。

 

「新しい意識」を生み出すためのレッスンとしての、ネイティブ・マインド

 

そういえば久々に読書感想文を書いた。思い返せばこつこつブログを書いていた10年前以来。20代後半の僕はもっぱら人材開発や組織開発に関連する書籍を中心に読んでいた。30歳前後は事業立上げや起業の書籍を読んでいた。そして30代後半の僕は、こうして、アメリカン・インディアンについての書籍を取り上げて感想を書いている。本当に人生、どうなるかわからない。

 

ここからは、マニアックなので、この投稿には書かなかったこと。そして、最近考えていることについて。

 

この書籍を読んだのは確か2年ぐらい前。この記事にも書いてあるけれど、北山耕平さんの書籍にはまって色々と読んでいる最中に出会った一冊。その時も面白いと思っていたけれど、そこまではまった感じはなかった。

 

それが今年の10月に下北山村に訪れ、1300年以上続く修験道の院主さんの話を聞かせてもらう機会に恵まれ、かちっとハマる感じがした。日本人の信仰とアメリカン・インディアンのカルチャーがあちらこちらでつながっていく。のめり込むように改めて読み直した。

 

ほぼ同時期に六本木で哲学家ティモシー・モートンの話を聞く。ティモシー・モートンは、その思想をハイパー・オブジェクトと呼ぶ。人間が主体となって事象を捉える思考を超越せよ、と。その後、京大篠原先生の「人新世の哲学」、マルクス・ガブリエルの「なぜ世界は存在しないのか 」、カンタン・メイヤスーの「有限性の後で」と一気読みした。「あぁ、思想界ではすっかり人間中心主義的な世界の捉え方は終わっているのだな」ということを噛みしめる。

 

アインシュタインの「この世の重要な問題は全て、それを作りだした時と同じ意識レベルで解決することはできない」という指摘が正しいのであれば、人間が主体となり、事象を捉え、分析し、再構築することによって引き起こされたこの2〜3世紀分の変化と問題は、同じ意識レベルでは解決できない。おそらく、そうした問題意識が、思想界に見られるような「人間を超越する」という方向に議論が進んでいるのかもしれない。

 

しかし、どうにもしっくりこないのは、人間を超越する、という概念は、どうにもエリート志向でインテリくさいという印象が拭えないところだ。モートンらは決してエリートを育てよ、とは言わない。しかし、おそらく現時点での意識レベルの場合、これらの思想は「サステナブルな世界を導く、リーダーを育てよう」という方向に議論が流れていきそうな気がする。そういうリーダー、つまり、誰かが何かを支配する、という意識レベルこそ、僕らが超えていかなくてはならないものなのではないかと思う。さて、どうなるんだろう?

 

話をインディアンに戻す。インディアンというと、「インディアン、嘘つかない」という言葉が有名だ。これはとある映画の台詞が一人歩きして有名になったのだが、この台詞が生まれてきた背景を知っている人はどれくらいいるだろう。

 

アメリカ大陸は、ネイティブ・モンゴリアンがたどり着き、暮らし続けてきたインディアンとその大地を我が物にしようとする開拓者との間で長らく争いと駆け引きが行われてきた。ある部族とある開拓者グループがある土地を巡って駆け引きをした際にこんなやりとりがあったという。開拓者のリーダーは、その部族のメディスンマンと呼ばれる皆から慕われ、中心的な役割を担っている人物を見つけ出した。そして彼らは部族から開拓者に土地の主導権を譲り渡すかわりに、開拓者は部族に対して保護と報酬を約束する、という契約だった。しかし、その後、部族はその土地から出ていくことはなかった。これを受けて、開拓者達は「我々は部族のリーダー=代表者と契約、をした。インディアンは約束を守らないのか!」と部族を非難した。これに対して、部族は「メディスンマンがそのような約束をしたとして、それはあくまで彼一人との約束でしかない。」

 

これは決してインディアンが約束を守らない野蛮な部族である、という話ではない。インディアンには、「部族を特定の個人が代表する」という概念がなかったのだ。現に、当時までインディアンは、部族の中での決まりごとは長老達が対話を通して取り決めていたというし、メディスンマンはその調停役を担っていた。組織を管理し、支配し、イニシアチブを発揮するリーダーなどいなかった。それが、開拓者達には分からなかった。結果的に上記のような行き違いにつながった、と言われている。

 

この話が実話なのかどうかは確かめようがない。が、僕はこの話を通して、いつのまにか僕らは組織にはリーダーが必要なのだと思い込んでいる自分がいた。同時に、誰かを支配し、誰かに支配されることを当然のごとく受け止めている自分がいることを知った。いや、人だけではなく、僕らはこの自然や大地を支配して当たり前かのように振る舞っている。しかしそれは果たして本当に「当たり前」のことなのだろうか?

 

脱支配的な態度、人間と自然との共存、世界の思想の潮流の中において、日本という土地で生まれた僕たちが生み出す「新しい意識」とは何なのだろうか?この問いへの解を、教育の場に落とし込んでいくことが当面の僕のテーマで、来年には何かしら形にしながら、考え続けていくことになる。奈良で。