説明できる欲。説明できない愛。 | Work , Journey & Beautiful

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最近、人の営みは欲と愛とでできているのだなぁと思うことが多い。そしてこうも思う。欲は説明ができるが、愛は説明ができない。
 
人の営みの多くは欲でできている気がする。正確には、何かしら合理的な(合目的的な)説明ができる営みは、概ね欲に基づいている。何かを食べることも、目標に向けて努力することも、世の中をよりよくしようとすることも、基本的に欲に基づいている。
 
今日、同僚と話していて「世の中をよりよくしようとしている人の理由を突き詰めると自分のためである。逆に自分の欲に基づかない人の話を聞いても、訴えかけてくるものがない。」という趣旨の意見を聞いた。この考えに、僕は強く共感した。
 
強く共感したのは、「自分は何を欲しているのか?」「自分の欲は何なのか?」という問いと向き合い、満ち足りないものを満たしていくことを経て、その人のリーダーシップが開発されていく様子を何度も目にしているからだ。
 
同時に、自分の欲を理解できずに、誰かの作り出した欲を追いかけて、疲弊する人もよく目にする。その行為すら、他者と同じでいたい(他者に同じであってほしい)という欲で説明がつく。
 
かくいう僕も、イライラしたり、ムシャクシャしたり不安になったりすることがある。そんな時はなぜ自分はそんな感情を抱くのか?と自問自答する。すると自分の欲が見えてくる。自尊心、征服欲、独占欲、など形を変えて浮かび上がってくる。時に淫らに。時に禍々しく。時に苦々しく。そうして浮かび上がってきた欲に「本当にその欲は、今の自分に必要なのか?」と問いかけると、実はもはや自分にとっては不要な過去の産物だったりすることもあり、興味深い。惰性で欲を抱えるのだ。
 
あるいは、満ち足りない欲と出会えたのであれば、それを全力で満たすことにしている。具体的には寂しいとか不安だとか苦しいとか分かち合ってほしいといった欲を、口に出していうようにしている。おかげで、なのかどうかはわからないが、僕は、基本的に心身ともに満たされている。
 
一方、人は時に説明のつかないことをする。
自身の欲を手放し、求めず、超越することができる。僕は、人が時折見せるその手放す行為を、他にしっくりくる呼び名がないから、愛と呼ぶことにしている。
 
ある時、2011年の震災で津波から生き残った女性の話を読んだ。それは、僕が何度となく読み続けている「未来が見えなくなったとき、僕たちは何を語ればいいのだろう」の中で紹介されているストーリーだ。
 
彼女は坂を歩いていた。そこに老婆が歩いていた。ゆっくりとした歩みだった。「一緒に行きましょう」と声をかけた。しばらく二人は一緒に歩いた。ゆっくりと。そして老婆は言った。「どうぞ、先に行ってください。自分の命を守りなさい。あなたはまだこれからなのだから、行ってください。」と。彼女は決断を迫られた。辛い思いをしながら、再び山を上りはじめた。後方で、津波の音がした。振り返ると老婆が波に追いつかれるところだった。浮き沈みの後、波に飲み込まれていった。彼女は今もその時の情景を忘れられずにいる。と。
 
この話を聞いてから、時折考えることがある。老婆は、なぜ、女性を先に行かせたのだろうか。「老い先の短い自分のせいで、自分よりも若い女性の命を奪うことが耐えられなかったのだろう」と説明はできる。しかし、老婆は生きようとする欲はなかったのだろうか。いや、そんなことはないだろう。どこか諦めにも近い想いで、自身の欲を手放したのだろうか。血のつながりもない、見も知らぬ誰かのために。それは本人にしかわからない。そしてそれを確かめる術もない。ただ分かることは、人は時折、欲を超越し、手放すことがある、ということだ。
 
ひょっとするとそのような超越は、DNAに刷り込まれているのかもしれない。「二人で死ぬよりは、片方を逃せ」とプログラミングされているのかもしれない。でも、そのプログラミングは不完全みたいだ。そのプログラミングが正しく機能するならば、僕らは多くの課題を生み出さずにいられただろう。むしろ、自らの欲を手放せることの方がイレギュラーなのかもしれない。